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血煙高田の馬場

『血煙高田の馬場』(ちけむりたかだのばば)は、1937年(昭和12年)製作・公開、マキノ正博監督による日本の中篇劇映画である。第二次世界大戦後の1952年(昭和27年)、51分に短縮され、『決闘高田の馬場』(けっとうたかだのばば)として再公開された。1937年(昭和12年)4月にマキノトーキー製作所を解散し、比佐芳武の書いた吉川英治原作の『恋山彦』の脚本を携えて、同じ京都・太秦の日活京都撮影所に入社し、『恋山彦』前篇・後篇を含めて7本目の監督作品が、本作である。主演の阪東妻三郎も、自らの製作会社阪東妻三郎プロダクションを閉じ、同年に同撮影所に入社し、マキノの監督した『恋山彦』前篇・後篇に主演、巨匠・池田富保監督、山本嘉一主演の『水戸黄門廻国記』での佐々木助三郎役、マキノ正博監督の『国定忠治』、稲垣浩監督の『飛竜の剣』での主演を経て、日活入社後初の正月作品であった。原作・脚本にクレジットされている「牧陶三」は、マキノ自身の筆名である。1694年3月6日(旧暦元禄7年2月11日)に実際に起きた中山安兵衛(のちの堀部武庸、四十七士の一人)の「高田馬場の決闘」の故事と逸話をベースに、マキノが書き下ろした。八丁堀(現在の東京都中央区八丁堀)から高田馬場(現在の同新宿区西早稲田3丁目)までの「安兵衛の韋駄天走り」を表現した、モンタージュ技法が有名である。主人公の中山安兵衛の事件当時の年齢は満24歳、本作では「血を分けた叔父」という設定になっている菅野六郎左衛門は「齢40を過ぎ」とのことであったが、本作公開時点での阪東妻三郎の実年齢は満36歳、香川良介は満41歳であり、5歳しか違わなかった。長屋で安兵衛とのからみの多い「大工の熊公」を演じた市川百々之助(公開当時31歳)は、10代のころに帝国キネマ演芸(帝キネ)でデビュー、その後、市川百々之助プロダクション(百々プロ)を設立したほどの剣戟映画のスター俳優であり、その妻「お才」を演じた原駒子(公開当時27歳)も松竹下加茂撮影所出身でその後百々之助同様に帝キネで活躍したスター女優であったが、本作撮影時には羅門光三郎とは離婚していた。本作で描かれる物語の終わった後で、安兵衛が養子入りすることになる堀部家の当主・堀部弥兵衛を演じる藤川三之祐は、日活向島撮影所以来の日活俳優(藤川三之助)とは異なる人物で、公開当時は満48歳であった。監督のマキノ同様、マキノトーキー製作所の解散を受けて、いっしょに日活に移籍した原駒子、團徳麿(ゲンテキ役、公開当時満35歳)、志村喬(楽々亭役、公開当時満32歳)、大倉千代子(お妙役、公開当時満22歳)、葉山富之輔(河童の勘右ヱ門役、公開当時48歳)らが、いずれも主役の阪東に大きくからむ役を得ている。タイトルになった主題である「高田馬場の決闘」の剣戟シーンのため、撮影前日、マキノは阪東妻三郎を宮川町のホールに連れて行き、ジャズのレコードをかけてダンスを踊り、翌日の本番ではジャズのノリで撮影をしたという。本作の全撮影日数は7日であった。本作は、同年12月31日に、大阪千日前の常盤座を筆頭に、正月興行作品として公開された。マキノはまったく同日に、東京浅草六区の富士館を筆頭にした正月興行のために、片岡千恵蔵主演のもう1本のスター作品『自来也』(同時上映は清瀬英次郎監督の短篇『愛国行進曲』)を完成させていた。本作と『自来也』2作合わせての製作期間は20日間未満であり、この同時公開によって「早撮り監督」とされることを恐れ、マキノは同じ撮影所の同僚である稲垣浩の名を借りて、共同監督名義とした。したがって、本作は、実際にはマキノが単独で演出した作品であり、この件に関してはマキノサイドだけではなく、稲垣サイドもそう証言している。稲垣は、本作公開の次々週、1938年(昭和13年)1月14日公開の番組であった『無法者銀平』を片岡千恵蔵主演で撮影していた。1952年(昭和27年)、51分の短縮版『決闘高田の馬場』として再公開されたときには、映画倫理規程管理委員会(旧映倫、1949年発足)による審査が行なわれており、映倫番号は「S-185」(「S」は短篇を示す)であった。当時の日活は、戦前所有していた撮影所が1942年(昭和17年)の戦時統合以降すべて大映のものとなっており、営業部門(配給・興行)のみで調布の日活撮影所はまだ開業しておらず、同年は新作を製作・公開することができなかった。1985年(昭和60年)5月31日 - 同年6月9日、第1回東京国際映画祭協賛イベントとして開催された第8回ぴあフィルムフェスティバルで行なわれた「マキノ雅裕レトロスペクティブ」で、51分尺の戦後短縮版が上映されている。2008年(平成20年)8月27日 - 同年9月6日、イタリア・ヴェネツィアで開催された第65回ヴェネツィア国際映画祭のコンペティション外イヴェント部門( )で、" CHIKEMURI TAKADANOBABA" (『血煙高田の馬場』)の題で同様の版が上映された。2011年(平成23年)11月20日 - 同年同月27日、第34回ナント三大陸映画祭での日活特集では、"Duel à Takanobaba" (『決闘高田の馬場』)の題で同様の版が上映された。2012年(平成24年)11月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターは、44分尺の16mmフィルムによる上映用プリントを2種、50分尺の35mmフィルムによる上映用プリントを1種、20分尺の35mmフィルムによる音声トラックのないプリントを1種所蔵している。通常、同センターが上映に使用するプリントは、50分尺(51分尺)ものであり、『血煙高田の馬場』ではなく、『決闘高田の馬場』のカットタイトルが冒頭に入っている戦後短縮版である。ビデオグラムについては、1983年(昭和58年)および1995年(平成7年)にVHSセルビデオが発売されたのみであり、DVDあるいはBlu-ray Discでの発売は行なわれていない。舞台は元禄7年春、江戸・八丁堀。長屋の住人・中山安兵衛(阪東妻三郎)は、いつでも飲んだくれ、喧嘩に明け暮れる毎日である。腕がめっぽう強く、長屋では「先生」と呼ばれて人気者である。安兵衛の苦手とするものは、牛込の住人・菅野六郎左衛門(香川良介)という叔父である。村上庄左衛門(尾上華丈)との剣道におけるトラブルから、江戸郊外・戸塚村の高田の馬場で、叔父は果し合いをすることになってしまう。叔父はそのことを告げに、天涯二人きりの肉親である安兵衛の長屋の部屋で待つ。安兵衛は仲間と飲んだくれ、喧嘩をしては飲み、他人の喧嘩に割り込んでは飲み、夜が明けてしまう。果し合いの刻限が迫り、叔父は安兵衛に書き置きを残し、長屋を去る。そのただならぬ様子に驚く長屋の者たち。しばらくして帰ってきた安兵衛は、長屋の者たちに書き置きを読むように言われるが、乗り気がしない。それでもなお長屋の者たちが家に入り込んでまで、読めと勧めるので嫌々読み始める。読み進めるに連れて、様子ただならなかったという叔父の事情をすべて知るに至り、二日酔いで疲れ果てた身体を奮い立たせ、高田の馬場めがけて全速力で走り出す。安兵衛が高田の馬場に到着すると、村上兄弟とその一味の中津川祐範(瀬川路三郎)らの多勢に無勢で闘った叔父は、すでに瀕死である。自らへの悔恨と村上らの卑怯さに怒り狂った安兵衛は、踊るように跳ねるように斬って斬って斬りまくる。18人斬りの末に叔父に駆け寄ればすでに叔父に息はない。果し合いの野次馬たちは安兵衛の快挙に沸きあがるが、立ち尽くす安兵衛の胸には悔恨と空虚さが残った。必殺シリーズ第3作『助け人走る』第2話「仇討大殺陣」の冒頭に本作の18人斬りのシーンが挿入されている。なお、同作の主役が田村高廣であることから、それを踏まえて暗示した台詞がある。

出典:wikipedia

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