志村 正順(しむら せいじゅん 本名:表記同じく「しむら まさより」、1913年10月2日 - 2007年12月1日)は、日本の昭和時代に活動したアナウンサー。NHKで主に大相撲、プロ野球等のスポーツ実況中継を担当した。東京府北豊島郡南千住町(現・東京都荒川区南千住)の乾物・雑穀商「川萬商店」に生まれる。出生時の名は「正二」。日大付属中卒業後の1931年、一時僧侶を志し、大正大学予科に通うかたわら、滋賀県甲賀郡大原村の親類の寺院で得度し、「正順」と改名するが、明治大学政治経済学部進学のため還俗している(のちも名を正二に戻さず、「まさより」ないし有職読みの「せいじゅん」で通した)。明大卒業後の1936年、ミシンの外交販売員を経て、NHKのアナウンサー採用試験に合格し、入局。東京中央放送局に赴任し、河西三省、松内則三、山本照、和田信賢らの指導を受ける。1938年から1939年にかけて名古屋中央放送局に転勤したのを除いては、退職まで東京勤務を通した。志村は1936年11月29日の秋季リーグ(第2回全日本野球選手権)において、東京巨人軍の沢村栄治のプレーを、初めてラジオで伝えた。沢村の独特な投球フォームを「沢村、左足を思い切り上げて、第一球のモーション。靴底のスパイクがはっきりと見えるほど、高々と上げました」と表現した。1940年に大相撲中継の担当を開始。これに先がけ、志村は本場所が開催されるたびに中継放送開始前の両国国技館に通い、枡席に設営された放送席の、スイッチが入っていないマイクの前に座って幕下の取組を描写し、記者や観客の好奇の目にさらされながら実況の腕を磨いていた。戦後すぐの1947年より、創刊間もない少年誌『野球少年』上に試合の推移を実況アナウンスの速記風につづった自筆のエッセイ「誌上放送」を連載。多くの読者を獲得する人気を得る。志村は1951年3月場所で、客席で観戦中だった神風正一を見つけ、去る1949年の『街頭録音』の出演者としての神風の弁舌に感心したことを思い出して、急遽ゲストとして放送席に招き、取組中の力士の技術を語らせた。神風は1953年5月場所から正式に専属解説者となり、実況アナウンサーとスポーツ経験のある解説者という、日本のスポーツ中継放送における番組進行のフォーマット成立の嚆矢となる(従来の日本のスポーツ中継放送では、アナウンサー1人ないし2人での番組進行が一般的だった)。1952年のヘルシンキオリンピックの実況中継を現地で担当したあと、帰国する前にアメリカ・ニューヨークへ立ち寄ってメジャーリーグを観戦。実況中継にジョー・ディマジオが解説を加えている様子を見学した。帰国後志村は、ディマジオに匹敵する大物解説者を置くことをNHKスポーツ部長・鵜沢七郎に発案して了承を受け、やがて松竹ロビンス元監督・小西得郎のスカウトに成功(当時デイリースポーツ評論家。NHK専属野球解説者第3号)。志村は、小西とのコンビで数多くの試合に立ち会った。1953年2月1日には、NHKテレビ開局特別番組の司会を担当し、開局第一声となるアナウンス「JOAK-TV。こちらはNHK東京テレビジョンであります」を読み上げた。同年、第1回和田賞を受賞。1955年6月から1958年6月までと、1963年8月から1967年8月にかけてアナウンス部長。1961年に病気療養のため長期の休養を取ったことをきっかけに体力の限界を悟り、第一線から退いた。1967年10月に退職し、放送の現場から完全に離れて、神奈川県藤沢市でマンション経営者に転身する。その後は放送関係者との交遊もほとんど断ち、公の場には、1984年の蔵前国技館閉館セレモニー、1989年の昭和天皇崩御に伴う特別番組でのインタビュー、1995年12月20日に行われたパーティ「戦後50年 NHKスポーツアナウンサー大集合」など、数えるほどしか姿を見せないようになった。晩年の一時期は名古屋市に住んだ。2005年に野球殿堂の特別表彰者に選出された。放送関係者の野球殿堂入りは史上初だった。後輩の刈屋富士雄が2015年4月25日に日本スポーツ学会において行った講演によれば、当時の野球殿堂入りを祝うパーティに出席した志村は、挨拶の際、放送の現場を離れたのは鬱病を患ったことが起因だったと告白したという。2007年12月1日、老衰のため藤沢市で死去、。訃報は4ヶ月後の2008年4月24日に公表された。志村は生前に献体登録を行っていた。いずれもNHK下記のほか、記録映画等にナレーターとして参加。
出典:wikipedia
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