インプ(、1894年 - 1909年)とは、アメリカ合衆国のサラブレッドの競走馬、および繁殖牝馬である。19世紀末のアメリカ競馬で171戦をこなし、1899年のアメリカ年度代表馬に選出された。1965年にアメリカ競馬殿堂入りを果たしている。その真黒な青毛の馬体から、当時の流行歌に因んでマイ・コールブラック・レディ () という愛称が付けられていた。世紀の変わり目に活躍したインプは後年に「ゲイ・ナインティーズ(古き良き1890年代)の象徴」として引き合いに出されることがある。オハイオ州チリコーシのダニエル・R・ハーネスの牧場で生産されたサラブレッドである。競走馬デビューも地元オハイオ州およびケンタッキー州で行い、チャールズ・ブロスマン調教師のもとで2歳時は短距離戦を中心に使われ、その年11戦3勝と、この時代としては普通の出走回数、およびそこそこの成績に留まった。しかし翌年以降は当時としても異例なまでの出走回数をこなしていくことになる。3歳時は実に50回の出走を経験し、14勝と2着10回で4,934ドルの賞金を稼いで話題となった。4歳時には年初に4連闘をこなした後にシカゴの競馬場に送られ、そこで11戦10勝と優秀な成績を収めた。この年は出走回数こそ減ったものの21勝と勝ち数を増やし、さらに当時の大競走であったサバーバンハンデキャップにも挑戦したが、ここでは敗れている。5歳時は東海岸の競走にも多く使われるようになり、ブライトンハンデキャップではローレンスリアライゼーションステークス勝ち馬のエセルバートに9ポンド差のハンデキャップを与えながらこれを破っている。さらにサバーバンハンデキャップにも再挑戦し、16頭立てで行われた同競走を2分5秒80の勝ち時計で優勝、初の牝馬による同競走制覇を成し遂げた。地元チリコーシにおいてはこの快挙に大いに沸き、インプが凱旋帰郷した際には特別祝日を設けるなど町を挙げて出迎え、「マイ・コールブラック・レディ」の演奏とともにパレードを行っている。6歳時の有名な一戦にアドヴァンスステークスがあり、インプはここで後続に30馬身差をつける大圧勝劇を繰り広げ、さらにダート14ハロン(約2816メートル)のアメリカレコードを樹立している。最後のシーズンとなった1901年の7歳時に調教師がピーター・ウィマーに替わったが、それでも13戦して3勝を挙げている。インプは7歳のシーズンをもって引退した。現役中171戦をこなし、うち62戦で勝ち、2着35回、3着29回という高い複勝入着率を最後まで維持し続けた。またレコードタイムも各地で記録しており、アメリカレコードでは上述の14ハロンのほか、8.5ハロン(約1709メートル)、10ハロン(約2012メートル)、12ハロン(約2414メートル)の記録を塗り替えていた。1902年にハーネスが亡くなると、インプは当時の大馬主ジョン・E・マッデンに売却され、マッデンのハンブルクプレイスファームで繁殖牝馬となった。そこでインプは6頭の仔を産み、うちの1頭ファウスト( 1904年生、牡馬)がステークス競走勝ちを収めている。インプは1909年に没し、ハンブルクプレイスファームの墓地に埋葬された。墓石には「The black whirlwind(黒い旋風)」と刻まれていた。後の1996年に同牧場敷地の所有者であったパトリック・マッデン(ジョン・マッデンの曾孫にあたる)は同地を売却して商業区画に変え、2004年には競走馬らの墓地も開発の対象とされた。現在同地はウォルマートの店舗が建てられ、墓地は別所に移設されている。※当時はグレード制未導入以下、優勝時期不詳の勝鞍。父ワグナーはイギリスで競走生活を送った馬で、デビュー戦のウィルトンパークステークスで勝利を挙げたのちに引退した、1戦1勝の戦績の馬であった。母フォンドリングも1戦のみで引退した馬で、こちらはデビュー戦で故障したため未勝利のままで引退した馬であった。
出典:wikipedia
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