神奈川県(かながわけん)は、日本の県の一つ。関東地方の南西端、東京都の南に位置する。県庁所在地は横浜市。県名は東海道筋に古くから栄えた宿場町神奈川宿(現・横浜市神奈川区)、および幕末に戸部町(現・横浜市西区紅葉ヶ丘)に置かれた神奈川奉行所に由来する。これら「神奈川」の由来は、京急仲木戸駅近くに流れていた長さ300mほどの小川の名前からで、現在は道路になっている。都道府県別の人口は東京都に次ぐ第2位。人口密度は東京都、大阪府に次ぐ第3位。県内総生産は東京都、大阪府、愛知県に次ぐ第4位。県内の政令指定都市数は3つと日本最多。面積は第43位の規模である。神奈川県は、関東地方の南西部に位置する県で、元の相模国全域と武蔵国の一部に当たる。県の人口は'人(現在)で、総人口の約6.9%を占め、面積は'km²で、国土の約0.6%を占める。県内の市町村数は33で、うち市は19、町は13、村は1(愛甲郡清川村)。県内の政令指定都市は横浜市・川崎市・相模原市の3市、中核市は横須賀市の1市、特例市は小田原市・大和市・平塚市・厚木市・茅ヶ崎市の5市である。県東部の横浜市、川崎市は、都市化・工業化が進んでおり、東京湾に面した京浜工業地帯の一角を形成する。県西部は緑豊かな丹沢山地から足柄山地、箱根山が連なり、酒匂川が流れる足柄平野には小田原城の城下町・小田原市が開ける。県中央部は相模原市、海老名市などの平野部で都市化・工業化が進んでおり、相模川が流れ平塚市から相模湾に注ぐ。県南東部は、海沿いに茅ヶ崎市、藤沢市が開け、鎌倉幕府が置かれた鎌倉市から、明治以来の軍港都市・横須賀市がある三浦半島にかけて、三浦丘陵が連なる。県域は、古くは相模国の中心である相模湾沿岸部と相模川流域部が栄えた。川崎市と横浜市の大部分を占める武蔵国の領域は、古東海道(矢倉沢往還)沿いと東京湾沿岸を中心に小規模な農漁村が形成された。相模国府は所在地が特定されていないが、平塚市、大磯町、海老名市、小田原市に置かれていたという説がある。平安時代から武士団の活動が活発化し、末期には征夷大将軍・源頼朝により鎌倉に鎌倉幕府が置かれた。鎌倉時代の始まりである(開幕の時期は諸説あり)。鎌倉には鶴ヶ岡八幡宮を筆頭に神社仏閣が多数建立され、鎌倉五山も整備され、武士の都として君臨する事となる。その後、執権北条氏によって運営された鎌倉幕府は元寇の恩賞を分け与えられず、全国的に反乱を招く。幕府自体も新田義貞の鎌倉攻めにより滅亡。足利尊氏による室町時代へと時代は移る。室町時代には鎌倉公方が東の将軍府として置かれるも、政権争いが絶えず、最終的に鎌倉公方は茨城県古河に移り古河公方となり、武家の都・鎌倉の終焉を迎える。その際に鎌倉の街並みも破壊され、現在に至る街の連続性は失われた。戦国時代には北条早雲が相模・伊豆を切り取り、日本最初の戦国大名となる。その後5代に渡り名君を出した後北条氏の拠点である小田原は隆盛を誇り、関東制覇に邁進した。当時の小田原城下の発展は西の山口に対し、東の小田原と迄言われた。日本最初の上水道も、この時代に整備された。しかし羽柴秀吉の快進撃の前に降伏を余儀なくされ、戦国大名としての北条氏は断絶に至った。秀吉の全国制覇の際、北条氏の領土は徳川家康に移り、家康は拠点を小田原から江戸に移した。その後江戸時代には江戸幕府の置かれた江戸への交通路として東海道が整備され、東京湾沿岸部の開発が進んだ。県域には幕府直轄の代官支配地と旗本・御家人の所領が多く配された。江戸時代中期以降、県域内に本拠を置いた大名領(藩)は西部の小田原藩(小田原市)及び規模の小さい2藩(荻野山中藩(厚木市中荻野)、武蔵金沢藩(六浦藩、横浜市金沢区))のみであるが、一方で県域外に本拠を置く大名の飛地領が多く置かれ(烏山藩(栃木県那須烏山市)、佐倉藩(千葉県佐倉市)、西大平藩(愛知県岡崎市)など)、県域内の支配はモザイク状に細分されていた。幕末には横浜港が開港され、明治時代に入ると東京湾沿岸部を中心として発展した。戦前・戦後を通じて、京浜工業地帯周辺における商工業の発展と東京一極集中に伴うベッドタウン化などにより人口も増加したため、県内には過疎地域自立促進特別措置法によって指定された過疎地域がない。とは言え、後述(#人口)のように横須賀市や小田原市、三浦市など人口の停滞ないし減少が顕著な地域もあり、また足柄上地域などに中山間地域を抱えている点に他都道府県と変わりはない。神奈川県は関東平野の南西端に位置し、東西約78km、南北約60kmとなっている。県域はかつての相模国全域と武蔵国久良岐郡・橘樹郡・都筑郡(現在の川崎市および横浜市の一部)からなる。西は丹沢山地で山梨県、箱根山地で静岡県と接する。東は東京湾に面し、東京湾アクアラインを介して千葉県と連絡する。南は相模湾に面し、三浦半島が太平洋に突出する。北東部の川崎市では多摩川下流が東京都との境界となっているが、中流部では東京都に属する稲城市、多摩市、町田市が多摩川以南に張り出し、町田市はその南西部で境川を都県境として本県の相模原市、大和市と接している。土地の利用区分面積(2003年)は、森林・原野が39.2%を占め、以下、宅地の26.5%、農用地の8.8%、道路の7.9%、水面の3.8%と続く。県内の最高峰は蛭ヶ岳(1,673m)で、檜洞丸(1,601m)、大室山(1,588m)が続く。川の長さは相模川(55.6km)が最も長く、境川(52.1km)、中津川(32.8km)が続く。湖の面積は芦ノ湖(7.1km) が最も広く、宮ヶ瀬湖 (4.6km²)、相模湖(3.3km²)と続く。県域は中央部を南流する境川と相模川によって大きく東部丘陵地帯(境川以東)、中央部低地帯(境川-相模川)、西部山地帯(相模川以西)に分けられる。海岸線の長さは約430kmに及び、変化に富んでいる。多摩川と境川にはさまれた県内東部の地形を特徴づけるのは多摩丘陵を中心とする丘陵地形である。東京都多摩地域南西部から続く多摩丘陵のうち、県内に属するのは南部の標高70~90mほどの低位面である。東京湾側斜面と相模湾側斜面とを分ける分水界は西に偏しており、東京湾側では多摩川支流の三沢川や五反田川、鶴見川とその支流の恩田川、さらに帷子川や大岡川などによって、また相模湾側斜面では境川支流の柏尾川とその支流によって樹枝状に侵食された谷(谷戸)が分布する。川崎市高津区南部から横浜市港北区・鶴見区・神奈川区にかけての高台はこの丘陵面よりも一段低い標高40~60mほどの洪積台地で、鶴見区内の地名から下末吉台地と呼ばれる。横浜市中部の野毛山・久保山や根岸台などの高台も同じ堆積面と考えられ、また多摩川対岸の武蔵野台地南東部の荏原台や淀橋台とも対比される。多摩川は北の武蔵野台地と南の多摩丘陵・下末吉台地の間を流れ、沖積低地を形成する。川崎市川崎区と東京都大田区南部(蒲田・六郷・羽田地区)にかけて三角州を形成しているが、人工的な地形改変が著しい。多摩丘陵の主稜線は、横浜市の最高地点である円海山(153m)・大丸山(156m)を経て三浦半島に続く。三浦半島はそのほとんどを三浦丘陵によって占められ、これを侵食する小河川沿いに開けた谷戸に鎌倉、逗子、横須賀などの都市が分布する。しかし平坦地が乏しいために、横須賀では早い段階から丘陵上にまで市街化が進み、他の地域でも高度経済成長期後半以降大規模な地形改変による宅地開発が行われている。横須賀市南部の平作川の河谷付近よりも南では衣笠断層や北武(きたたけ)断層、武山(たけやま)断層など、西北西 - 東南東方向に伸びる活断層が並行している。この活断層群は浦賀水道を挟んだ房総半島南部まで続く。半島南端の武山断層以南の三浦市では大きく分けて3段の海岸段丘が発達し、段丘面上には平坦地が広がる。段丘を樹枝状に侵食する河谷の末端は沈水して、小網代湾や油壺湾などの溺れ谷が分布する。県中央部の相模川中下流域に広がる階段状の平坦地を相模平野と呼ぶ。広義には関東平野の一部とされることもあるが、多摩丘陵によって分離され、地質構造上は独立の堆積盆地とされる。相模川の堆積作用によって形成された相模平野は、古い堆積面である相模野台地(相模原台地)と現在の堆積面である相模川低地とに分けられる(相模川低地の部分を「相模平野」と呼ぶこともある)。相模野台地は、相模川左岸と境川の間の大部分を占める洪積台地であり、西側の相模川沿いで顕著に見られる階段状の地形は最終間氷期以降に形成された河岸段丘である。北部の相模原市(旧市域)では大きく3段の平坦面に分けるが、台地南西端に位置し地質的な由来を異にする高座台地や、さらに古い時代の堆積面が丘陵となってわずかに残る座間丘陵など、詳細には10数段の平坦面が分布する。一方、相模川右岸にも中津台地と呼ばれる洪積台地が愛川町東部から厚木市北部にかけて広がっているが、その規模は相模野台地に比べると小さい。相模川は相模原市当麻(たいま)付近で流路を南に変え、海老名・厚木付近から両側に自然堤防と後背湿地を発達させた沖積低地を形成する。この低地は西の丹沢山地から流れ出す金目川水系が相模川右岸に形成した低地と一体となって県中央部に広い平野を作る。相模国内では早くから開発された地域であり、海老名には国分寺が建立され、寒川町には相模国一ノ宮である寒川神社が鎮座する。平塚から藤沢かけての相模湾岸には、縄文海進高潮期以降の海岸線の後退を反映して10列以上の砂堆列が分布する。湘南海岸として知られるこの砂浜は、相模川や酒匂川などから供給された土砂に由来すると考えられているが、近年はダム建設などによる供給との不均衡から侵食が著しい。県西部の山地は、それぞれの間に位置する秦野盆地と足柄平野によって北部の丹沢山地、東部の大磯丘陵、西部の箱根火山および足柄山地に分けられる。足柄平野の北東縁で大磯丘陵との境界をなす直線的な急崖は国府津-松田断層帯と呼ばれる非常に活発な活断層によるものであり、これを山北町の神縄断層に延長した神縄・国府津-松田断層帯は東日本を載せる北アメリカプレートと伊豆半島を載せるフィリピン海プレートの境界と考えられている。丹沢山地は、フィリピン海プレートに載って南から移動してきた伊豆半島が本州に衝突することで隆起して形成された山地であり、大磯丘陵は神縄・国府津-松田断層帯の活発な活動の蓄積によって隆起した丘陵である。神縄・国府津-松田断層帯は相模湾底の相模トラフに続き、1703年(元禄16年)の元禄大地震や1923年(大正12年)の関東地震(関東大震災)などの大地震の震源となっている。箱根火山は伊豆・小笠原弧に属し、二重の外輪山を持つ大規模な複式火山である。約65万年前に活動を始め、現在の熱海-三島-御殿場-小田原を山麓とする巨大な火山が形成された。約25万年前に起きた巨大噴火以降、白銀山-大観山-三国山-金時山-明神ヶ岳-明星ヶ岳を外輪山(古期外輪山)とする最初のカルデラが形成され、約6万5千年前の大噴火の頃までに浅間山-鷹巣山および屏風山を東側の外輪山(新期外輪山)とする新しいカルデラが形成された。現在の中央火口丘である神山や駒ヶ岳などは約3万年前に活動を開始し、それ以前に形成されていた古い中央火口丘を覆って成長した。中央火口丘からの火砕流や山体崩壊による堆積物が北側を回って流れていた早川を堰き止め、仙石原や芦ノ湖が形成された。箱根火山では現在でも大涌谷で噴気活動が見られ、周囲に箱根温泉、湯河原温泉など多くの温泉が分布する。太平洋側気候(但し相模原市のうち旧相模湖町・旧藤野町・旧津久井町地域は中央高地式気候に属する)で太平洋側に位置するため、温暖であり、また雨量が多い。気象庁の予報警報規程では東部(代表地:横浜)と西部(代表地:小田原)に分けられ、天気予報が発表される。ただしこの区分による「東部」と「西部」の境界は相模川ではなく、相模川東岸の旧市域を含めた相模原市全域が「西部」に、逆に相模川の西側に位置する平塚市・大磯町・二宮町が「東部」に属する。2010年5月27日に同規程が改正され、気象警報・注意報は市町村単位で発表されるようになったが、従前の発表単位であった旧「二次細分区域」(改正後は市町村が「二次細分区域」とされている)はそのまま市町村等をまとめた地域として適宜報道機関などで用いられている。これも含めた県内の区分は以下の通りである。横浜・川崎、湘南、三浦半島、西湘は海洋性気候、相模原、県央、足柄上は内陸性気候を併せ持つ。人口:人以下の19市6郡13町1村がある。町の読みはすべて「まち」。圏域内人口:人圏域内人口:人圏域内人口:人圏域内人口:人圏域内人口:人圏域内人口:人※人口は現在国土地理院の全国都道府県市区町村別面積調によると、神奈川県の面積はkm²である。神奈川県の東西南北それぞれの端は以下の位置である。北端は生藤山、南端は城ヶ島の安房崎、東端は川崎浮島ジャンクション、西端は三国山 (神奈川県・山梨県・静岡県)の北にある三国峠である。加えて、重心も併記する。また統計局の平成22年国勢調査によると、人口重心は横浜市旭区善部町にある。旧石器時代の遺跡は少ないが、概ね小規模ながら縄文遺跡は県内全域にわたって多く見られる。弥生遺跡は少なく、小規模で質も劣る。これは、弥生文化の進出が遅れたことを示すものと考えられる。また古墳も概ね小規模で、出現は畿内に1世紀以上後れた4世紀の中頃ないし後半とされる。5世紀前半には、在地土豪がヤマト王権に服属。相模川流域に相武(さがむ)国造、酒匂川流域に師長(しなが)国造、鎌倉・三浦付近に鎌倉別が任命された。534年(安閑天皇3年)には橘樹郡・久良岐郡に屯倉が設けられる。古代から中世にかけては、住人の中の富者が開墾地を広げ貢納物資の輸送にあたるなどしてさらに富裕となり、これを守るための自衛武力を蓄える。中央から相模・武蔵に派遣された役人の土着が相次いだ。神奈川県域は、相模八郡と武蔵国三郡からなる。国司が政務を執る政庁(国衙)は、国府と呼ばれた。相模国の国府は初め海老名に置かれ、後に移された。移転先の所在地は、はっきりしないが、『和名類聚抄』によると大住郡、『伊呂波字類抄』には余綾郡にあったとされる。武蔵国の国府は、東京都府中市大國魂神社付近といわれる。その神社境内から国庁脇殿と考えられる建物跡や敷き瓦が出土している。聖武天皇によって天平13年(741年)に詔が出され、全国に国分寺(僧寺と尼寺)が造営された。武蔵国分寺は東京都国分寺市に所在し、僧寺の伽藍は、中門・金堂・講堂が一直線に並ぶ東大寺式である。寺域は3~4町四方(約15ha)で、全国でも最大規模に属する。相模国分寺は、海老名市国分にある。僧寺は東西160m、南北120mの回廊をめぐらし、中門・東西に金堂と塔・講堂が配置された法隆寺式で、詔が出された天平より古い白鳳様式であるので、郡司の氏寺を改修したものと考えられている。尼寺は、中門・金堂・講堂と並び、講堂の両脇に経蔵と鐘楼がある。延喜式内社としては足上郡に寒田神社、余綾郡に川勾神社、大住郡に前鳥神社、高部屋神社、高座郡に寒川神社(名神大社)などが鎮座する。中世には鎌倉に初めて幕府が開かれ、武家政治の中心となる(鎌倉時代)。室町時代には、室町幕府により、関東八ヶ国(関八州)を支配の中心とした鎌倉府が置かれている。実質的な政務は、鎌倉府の長である鎌倉公方ではなく、補佐役の関東管領が執り行っていたため、関東管領の直轄地となっていた。戦国時代には小田原城を拠点とする戦国大名北条氏が旧支配勢力を滅ぼし、関東の覇者として不動の地位を固めた。後北条氏の優れた統治のもと、小田原は関東最大の都市に成長した。独自に日本国外と交易を行い、城下に唐人町を抱え、3代当主北条氏康によって日本で初めての水道である小田原早川上水が建造されるなど、当時「西の山口、東の小田原」と謳われた程国内でも発展した都市の一つとなっていた。江戸時代には小田原藩が存在したが、旗本領も多く、三浦按針(ウィリアム・アダムス)が徳川家康から三浦半島に領地を拝領したことは有名である。江戸時代中期以降、現県域内に本拠を置いたのは小田原藩のほかに同藩の支藩である荻野山中藩および武蔵金沢藩(六浦藩)があり、ほかに県域外に本拠を置く藩(烏山藩、佐倉藩、西大平藩など)の飛地が多く配された。小田原藩は相模川以西にある程度まとまった所領を有していたが(全域を領していたわけではない)、特に相模川以東では幕府領・旗本領・大名領のいずれについても支配が細分されて相給とされる村が極めて多く、現県域内において地域的なまとまりを醸成するような一円的な支配は行われなかった。江戸時代初期には徳川家康が好んで鷹狩りを行い、小杉御殿(現在の川崎市中原区)、神奈川御殿(横浜市)、藤沢御殿(現在の藤沢市)、中原御殿(現在の平塚市)などの将軍滞在所が置かれた。これらの御殿の使用は3代将軍徳川家光の代まで行われ、一時廃れたが、8代将軍徳川吉宗の代に復活した。19世紀の初頭から外国船(いわゆる「黒船」)が日本近海に現れるようになり、日本の開国を求めてきた。中には武力で「開国・開港」を迫る国もあった。沿岸地域の警備が政治問題となり、神奈川県下では会津藩が文化7年(1810年)から観音崎・西浦賀・三崎での台場や陣屋の建設に着手した。これらの陣屋には会津藩士が常駐し、軍事訓練を行った。有事には沿岸の村々から漁船・荷物船を徴発する体制が作られた。その後も黒船の来航は止まず、文政元年(1818年)5月にはイギリス船が、同5年(1822年)にはイギリス捕鯨船が洲崎沖(千葉県)、天保8年(1837年)6月にはアメリカ商船モリソン号が浦賀沖に来航した。これら相次ぐ黒船の来航に、警備が強化されるとともに、非常時には沿岸の村々の人々を広く動員することが決められ、名主や村役人が警備担当者を分担することとなり、江戸湾の周囲の地域は防備の最前線に立たされることとなっていった。弘化3年(1846年)5月、アメリカのビットル艦隊が江戸湾内に来航したときには延べにして船3,000隻以上、農漁民4万人以上が防備に徴発・動員された。江戸幕府は安政5年(1858年)の日米修好通商条約、日英修好通商条約(安政五カ国条約)で「神奈川」を開港場とすることを約したが、繁華な場所への外国人の雑居により攘夷騒動などのトラブルが起こることを懸念し、出入りの管理が容易で街道筋から離れた対岸の横浜村(現在の神奈川県庁付近)に開港場を開設した。これは条約違反であったが、幕府は横浜は神奈川に含まれると強弁した。当初、欧米列国は条約違反を主張していたものの、この外交論争は間もなく終息する。横浜の港湾設備その他の施設が充実していくにつれて、神奈川宿は衰退し、横浜が発展し始めたためである。安政6年(1859年)、安政五カ国条約に基づき開港場とされた横浜と近傍区域(神奈川宿、程ヶ谷宿、本牧、根岸など)の行政を担当する神奈川奉行が設けられ、神奈川奉行所が武蔵国久良岐郡戸部村(横浜市西区紅葉ヶ丘、神奈川県立図書館付近)に、関内の現在神奈川県庁が建つ位置(横浜市中区日本大通)には神奈川運上所(横浜税関の前身)が置かれた。神奈川奉行は横浜周辺の行政とともに、条約で「横浜から十里四方」とされた居留外国人の遊歩区域に関する事務も管掌した。慶応4年(明治元年)3月19日(1868年4月11日)に神奈川奉行所の戸部役場(内務担当)、神奈川運上所(外務担当)は新政府軍に接収されて横浜裁判所となり、次いで同年4月20日(5月12日)には横浜裁判所が改称されて神奈川裁判所となり、その下に戸部裁判所(内務担当)、横浜裁判所(外務担当)が設置される形となった。さらに、同年6月17日(8月5日)には神奈川府となり、同年9月21日(11月5日)に神奈川県に改称された。寺島宗則が神奈川県の知県事に任命された。半年余のうちに4度も機構変革・改称が行われたことになる。なお、神奈川県史では横浜裁判所が設置された慶応4年3月19日(1868年4月11日)を「立庁記念日」としている。設置当初の神奈川県は従前の神奈川奉行所・神奈川裁判所の事務を引き継ぎ、「六郷川(多摩川)と酒匂川の間、横浜から十里四方」の旧幕府領・旗本領の行政を担当するものとされた。発足時の領域は、武蔵国橘樹郡133村、都筑郡77村、久良岐郡のうち50村、多摩郡のうち(錯綜をきわめるため詳細は分割後の多摩各郡の項目を参照)、相模国鎌倉郡77村、三浦郡89村、高座郡のうち103村、大住郡のうち104村(小田原藩領20村、六浦藩領1村を含む)、愛甲郡のうち12村(小田原藩領3村を含む)、津久井郡のうち30村(小田原藩領15村を含む)であった。ただし、藤沢宿以西の東海道筋や相模川以西の諸村の一部事務を韮山県が担当したり、小田原藩や荻野山中藩、六浦藩(武州金沢藩)の管轄区域との調整などに関連して、現実の支配関係は錯綜している。明治2年(1869年)、神奈川県域では、小田原藩・荻野山中藩・六浦(むつら)藩が版籍奉還を願い出て同年6月(7月)に各藩主が知藩事に任命され、全国的には中央集権化が進んだ。明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県の後、同年11月14日(12月25日)に関東地方の府県が統合・再編され、神奈川県の管轄区域は武蔵国のうち久良岐郡・橘樹郡・都筑郡および相模国のうち三浦郡・鎌倉郡とされた。また、相模国のうち境川以西の高座郡・大住郡・淘綾郡・愛甲郡・津久井郡・足柄上郡・足柄下郡の区域は伊豆国全域とともに小田原に県庁を置く足柄県に属するものとされた。これに対して神奈川県は、高座郡および武蔵国多摩郡が外国人遊歩区域に含まれることから従前の通り神奈川県の管轄とするべきであるとの上申書を政府に提出し、これを受けて当初は東京府及び入間県に分割された多摩郡の全域と、足柄県に属することになった高座郡とが改めて神奈川県の所属とした。この結果、多摩地域が神奈川県の管轄となり、相模川が足柄県との県境となった。なお、多摩郡のうち東京の市街地に近接する中野村ほか31村(後の東多摩郡。現在の中野区・杉並区)は翌明治5年8月19日(1872年9月21日)に再度東京府へ移管されている。1876年(明治9年)4月18日には足柄県が廃止され、同県の旧相模国地域は神奈川県に、旧伊豆国地域は静岡県に編入された。この時点で、現在の神奈川県の原形が完成した。しかし、上からの行政区域の改編は地域住民の生活感情を無視するものとして、足柄県の廃止の後10年経過した1886年(明治19年)に、再興を願い出ている。1878年(明治11年)、郡区町村編制法により県内に横浜区および久良岐郡・橘樹郡・都筑郡・西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡・三浦郡・鎌倉郡・高座郡・大住郡・淘綾郡・足柄上郡・足柄下郡・愛甲郡・津久井郡の15郡が編成された(東京府に再移管された旧多摩郡域は東多摩郡となった)。その後1893年(明治26年)4月1日には、西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡が東京府へ再移管されたため、現在の県域が確定する。その後1896年(明治29年)3月26日、郡制の施行に際して大住郡と淘綾郡が統合されて中郡となる。近代には東京の外港都市となった開港場・横浜を中心に京浜工業地帯が形成され、商業・工業が発展した。1923年(大正11年)9月1日の関東大震災(関東地震)では、小田原と三浦半島の直下が震源となったことから、大きな被害を受けた。また、当時としては珍しい大規模な都市計画が当時軍都であった相模原市で実施され、現在でも碁盤の目の道路などに名残が残る。第二次世界大戦では、1944年(昭和19年)以降、横浜市を始めとする沿海都市が空襲や艦砲射撃を受けた。東京湾の入口を制する横須賀市に置かれた横須賀港は戦前から日本海軍最大級の軍港であり、戦後も海上自衛隊自衛艦隊司令部やアメリカ海軍第7艦隊司令部が置かれている。また、相模原市・座間市に広がるキャンプ座間、綾瀬市・大和市に跨る厚木海軍飛行場、相模原市の相模総合補給廠、米軍相模原住宅など、神奈川県には現在沖縄県に次いで多くの米軍関連施設が存在する。これらの施設は2001年(平成13年)のアメリカ同時多発テロ事件により各施設に厳戒態勢が敷かれ、その後もセキュリティレベルは下がっていない。市町村行政課が、毎年3月31日(平成26年度からは1月1日)現在で公表した住民基本台帳人口における数値は下表の通りである。(単位・人)平成15年以前はを参照。人口は1939年(昭和14年)に200万人、1956年(昭和31年)に300万人を超えて以後、ほぼ7年ごとに100万人ずつ増加していった。2012年(平成24年)6月1日現在では907万2471人と、全都道府県で第2位の人口となっている(人口密度は東京、大阪に次ぐ第3位)。また、2010年から2015年における人口増加率は首都圏で東京、埼玉に次ぐ第3位となっている。合計特殊出生率は1.28と全国の1.37を下回っている(2009年)が、総人口はいまだ増加傾向にあり、特に横浜・川崎・相模原では都心回帰に伴って県内の市町村からの転入も多い。一方で、横須賀・三浦・小田原など東京通勤圏最外縁部に位置する市町では減少傾向にある。このため都市部への人口集中が進み、2012年(平成24年)現在、神奈川県民のうち約41%が横浜市民、約16%が川崎市民、約8%が相模原市民である。すなわち、県人口の半数以上が横浜市、川崎市、相模原市に集中していることになる。その一方で、例えば三浦市では人口が5万人を割り込み、戸建て住宅の定住者に10万円の奨励金を交付する三浦市定住促進制度などを導入するなど、人口減が顕著になっている。2015年(平成27年)5月8日現在計47選挙区 定数105(2015年(平成27年)5月8日現在)「かながわインターネット放送局」は神奈川県が運営するインターネットテレビ放送である。知事定例記者会見、県政ビデオクリップ、スポットCMなどのチャンネルを用意して県政の広報に務めている。平成20年(2008年)度の県内総生産は30兆8,997億円である。ドルに換算すると3,500億ドル前後に相当し、G20参加国の南アフリカ共和国やアルゼンチンの国内総生産 (GDP) に匹敵している。一人当たりの県民所得は319.9万円である。産業別就業者数は、第一次産業が4万4,000人、第二次産業が117万8,000人、第三次産業が295万5,000人となっている。県内の事業所数(工業を含む)は309,441事業所で、全国シェアは4.9%、また従業者数(製造業を含む)は337万4,752人で、全国シェアは5.6%となっている(2001年(平成13年))。いずれも東京都、大阪府、愛知県に次ぐ全国第4位である。事業所の40.5%は卸売・小売、飲食店で、29.1%のサービス業がこれに続く。また、従業者の31.7%はサービス業で、29.5%の卸売・小売、飲食店がこれに続く。化学工業は東京、大阪、愛知を抜いて1位となっている。県内の工業にかかる事業所数は10,966事業所で、従業者数は421,464人となっている。特に東京湾に面する横浜市や川崎市の臨海部は京浜工業地帯として工業が盛んである。製造品出荷額等は18兆5,660億円で、愛知県に次ぐ全国第2位となっている。県内の商業にかかる事業所数は74,540事業所(卸売業14,764事業所、小売業59,776事業所)で、従業者数は621,811人となっている。事業所数の全国シェアは4.62%となり、東京都、大阪府、愛知県に次ぐ全国第4位となっている。横浜港、川崎港、横須賀港の3港合計の貿易額は、輸出額8兆3,112億円、輸入額4兆5,389億円で、それぞれ全国の13.6%、9.2%を占める。全国の港別貿易額の順位では、横浜港は成田空港、名古屋港、東京港に次ぐ全国第4位(平成13年以降)、川崎港は第11位、横須賀港は第29位となっている。輸出品の7割以上は機械類及び輸送用機器が占める。また、輸入品は鉱物性燃料が3割、食料品等、機械類および輸送用機器がそれぞれ約15%を占めてこれに続く。県内には横浜市・川崎市などの市街地、江の島、鎌倉などの湘南地域、三浦半島の海水浴場、丹沢・大山、相模湖などのアウトドア・フィールド、箱根、湯河原町といった温泉地など、レジャー施設・観光地も多い。県内の観光客数は1億7,118万6,000人(2008年、過去最高)となっている。うち1億5,725万人が日帰り観光客である。地域別に見ると、日帰り観光客が最も多いのは横浜・川崎地域の5,084万8,000人、宿泊客が最も多いのは箱根・湯河原地域の578万9,000人となっている。県内の農家数は29,681戸(平成17年)で、県全体の世帯数の1%にあたる。経営耕地面積は16,978haで、うち76.7%が畑・樹園地(畑53.6%、樹園地23.1%)となっている。1戸あたりの作付面積は全国平均より小さいが、土地生産性は非常に高い。大消費地に近接する地の利を生かして、キャベツ・大根などの野菜、牛乳、豚肉、花卉の生産が盛ん。果樹はナシおよびミカンの生産が多い。西部、中部の中山間地域では茶が生産されており、「足柄茶」の統一ブランドで販売されている。農業産出額は761億円で、市町村別では第1位が三浦市(111億円)、第2位横浜市(102億円)、第3位平塚市(63億円)と続く。また、ワインの年間生産量は34,676キロリットル(平成22年度)に上り、ワインの生産量は統計上は日本一となっている。これは藤沢市に大手酒造会社であるメルシャンのワイン工場があることによる。漁業・養殖業生産量は57,641tで、うち海面漁業が95.1%を占める。三浦半島に散在する25の漁港を中心に行われ、マグロ延縄による遠洋漁業と大型定置網による沿岸漁業が盛ん。特に特定第三種漁港の指定を受ける三崎漁港はマグロ遠洋漁業の基地となっており、全国2位の水揚げ金額を誇る(408億700万円、平成17年)。相模湾では、独自の魚食文化も生まれ、オシツケ、スミヤキ、ナガスミヤキなどが貴重とされる。森林面積は、県土の約4割にあたる95,278ha(うち9割が民有林で、1割が国有林)。林家数は増加しているものの、木材価格の低迷で伐採が控えられているため、造林面積は20ha以下で推移している。県内の1ha以上の林家について見ると、1 - 3haの林家が全体の67.5%を占め、所有規模は極めて零細である。その他、NEC、キヤノンなどの電機工業の研究所・グループ企業が立地する。県内に民間空港はない。最寄の空港は東京国際空港・成田国際空港(国際線)である。なお、日本の太平洋に面する自治体で民間空港がないのは、神奈川県と三重県だけである。1991年(平成3年)に、日本で3番目、東日本地域では初の鉄道路線の全線電化が行われた(貨物線を除く)。大阪府・滋賀県・香川県と同様、JRの路線はすべて幹線で地方交通線は存在せず、関東地方では唯一JR東海の在来線が乗り入れている。現在は、相模鉄道本線西谷駅付近から新線を建設し、東海道貨物線を経由してJR横須賀線・東急東横線・東急目黒線へと接続する神奈川東部方面線計画が進行中である。かつてはマリンエキスプレス(川崎港-那智勝浦港-宮崎港・日向港)、シャトル・ハイウェイライン(久里浜港-大分大在港)などが営業していた。その他全国紙と中日新聞(東京新聞)の総局・支局・通信部も県内に所在する。その他、広域放送のNHK放送センター(総合テレビ・教育テレビ)と在京キー局5局(日本テレビ・テレビ朝日・TBS・テレビ東京・フジテレビ)の放送対象地域になっている。なお前述した各局は県内各地に中継局がある。その他在京AM3局(TBSラジオ・文化放送・ニッポン放送)の放送対象地域になっている。また外国語放送のInterFMも横浜市と川崎市が放送対象地域になっている。更に放送対象地域外のTOKYO FMJ-WAVEも横浜市、川崎市を中心に放送区域になっている。(参照)神奈川県の入込観光客数は1億7,119万人(延べ数、2008年(平成20年))で、地域別では横浜・川崎地域が最も多く、宿泊客数では箱根・湯河原地域が最も多い。また、国土交通省の調べによると、神奈川県の延べ宿泊者数は約1000万人泊(2007年(平成19年))となっており、47都道府県中では沖縄県に次ぐ第7位で、長野県、愛知県と並ぶ。
出典:wikipedia
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