六道の辻(りくどうのつじ、ろくどうのつじ)は、仙台藩・陸奥国領仙台城下町にあった変則六叉路(実質五叉路)に付けられた名称。「六道辻」とも書く。現在の宮城県仙台市青葉区、宮城野区、若林区の3区の区境が集まる「中央4丁目交差点」から「北目町ガード」辺りにあった()。東西道路(北目町通り)と南北道路(六道の辻の北側は東六番丁、南側は清水小路)とがつくる十字路に、北西から東五番丁南端が同十字路のやや西で北目町通に接続する変則五叉路の形状をしていた。ただし、清水小路には道の中央に開渠で幅1m位の四ツ谷用水の支流の水路1本が五橋方面に流れていたため、1つの道ながら2本の並走する道の状態であり、結果的に変則六叉路となった。現在は、東六番丁がJR東北本線などの軌道敷に転用されているため消滅し、四ツ谷用水は埋められ、東五番丁と清水小路が1本の道として愛宕上杉通りとなっている。愛宕上杉通りと北目町通りとがつくる十字路は「中央4丁目交差点」と名付けられた。また、JR軌道敷は立体交差化され、北目町通の上空を跨ぐ「北目町ガード」となっている。1601年1月12日(慶長5年12月24日)から元和年間までにおける仙台藩祖・伊達政宗による仙台城下町の建設では、現在宮城県庁舎や錦町公園などがある仙台上町段丘面においても仙台中町段丘との段丘崖の際に寺社が設置されたものの、概ね同段丘崖以西で広瀬川沿いの青葉山段丘、仙台下町段丘、および仙台中町段丘で行われた。同城下町における南北道路は東は東五番丁まで建設されたが、広瀬川沿いの片平丁より東において東一番丁までが奥州街道(現在の国分町通りおよび青葉神社通り)と並走してほぼ南北に通じさせたものの、東二番丁から東五番丁までは上町段丘との段丘崖に沿って北西から南東に南北軸に対して傾きを持って通す形になった。このため、東一番丁と東二番丁から東五番丁までは、南北軸に対する傾きの違いから同城下町北部の勾当台地区にその北端が集約し、江戸時代には仙台城の鬼門封じの定禅寺が置かれた。その後、明倫養賢堂が置かれ、明治以降は宮城県庁舎、仙台市役所、国の出先機関などの行政施設、および、宮城師範学校、宮城書籍館、商品陳列所、仙台衛戍病院などの施設が建設された。現在では勾当台公園として集客装置となっている。1627年(寛永4年)から、政宗の隠居所となる若林城および若林城下町が仙台城下町の南東に接して広瀬川沿いの沖積平野に建設が始められた。このとき、仙台城下町も拡張され、東五番丁の東側には侍町は東六番丁から東九番丁まで(大年寺山断層の断層崖手前まで)設置され、その東側にも寺社地が長町 - 利府線(断層)の断層崖手前まで設置された。このとき、東六番丁以降は大年寺山断層の走行に沿って北東から南西に南北軸に対して傾きを持って通す形となった。南北軸に対する傾きの違いから、東五番丁までと東六番丁以降が仙台城下町南東部においてその南端が集約し、「六道の辻」が生まれることとなった。六道の辻から北に延びる東六番丁はそのまま宮町通りとなり、真っ直ぐ仙台東照宮門前に繋がっていた。また、北目町通の東(大年寺山断層の東)には寺社地が集積した。「六道の辻」の名は、1833年(天保4年)の「御城下町割絵図」には記載されているため、寛永年間から天保年間までの約200年のいずれかの時期にこの呼称が当辻に命名されたと推定できる。名称の由来はいくつかあり、上記のような6本の道の交差点であるためとする説、仙台城下町の町外れにあって寺社地への岐路にあり、仏教の輪廻思想における六道を当てたという説、幕末に龍泉院跡地(旧・宮城県スポーツセンター辺り)にあった六地蔵をこの辻に移したためとする説などがある。なお、1887年(明治20年)12月15日に仙台区(現・仙台市)には日本鉄道(現・JR東北本線)が開通するが、建設の際にその六地蔵は東九番丁の龍泉院西門前に移転された()。
出典:wikipedia
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