寺村 道成(てらむら みちなり、天保5年6月24日(1834年7月30日) - 明治29年(1896年)7月27日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけての政治家、土佐藩士。寺村氏の一族。通称ははじめ麟三郎、のち左膳。明治維新後は日野春草(春章)と改名した。天保5年(1834年)、土佐国高知八軒町で、土佐藩士・寺村主殿成相(中老・700石)の三男として生まれる。兄は夭折しており、主殿は本家からすでに宇平(のち主水。諱は成寿)を養子に迎えていたが、安政元年(1854年)に主殿が死ぬと、道成は宇平の養嗣子となった。国学を修めて才学人として藩内で知られるようになる。文久2年(1862年)2月5日、安政の大獄以来隠居していた前藩主・山内容堂から召され、側用人となり活躍した。同年4月、文久の改革に伴い、安政の大獄で罰せられていた人々の復権が図られ、容堂の謹慎も解除。道成も8月に政務参与となり、10月には御用部屋入りに任ぜられ、江戸・京都で土佐藩の活動の一部を担った。同10月17日、山内容堂の前において、武闘派の乾退助と時勢について対論をすることになり、寺村は穏健な公武合体論を述べ、乾退助は尊皇攘夷論を唱えた。寺村は、当時藩政を主導した改革派の吉田東洋によって起用されたが、吉田に敵対する土佐勤王党の武市瑞山らの過激尊王攘夷派からも、無難な穏健派と見られていた。しかし、吉田東洋を暗殺して藩の主導権を握った土佐勤王党が尊王攘夷派の衰退により藩当局の弾圧を受けるようになると、元治元年(1864年)6月には側用役を罷免となり、容堂から遠ざけられた。慶応3年(1867年)4月、再び容堂の側用役に任ぜられ、側近として復帰。同月に開催され、短期間に破綻した四侯会議の決裂後、容堂は帰国するが、実弟・山内豊積(兵之助)を名代として滞京させ、寺村、真辺正心(栄三郎)、福岡孝弟らに補佐を命じた。坂本龍馬の船中八策に影響を受けた後藤象二郎の大政奉還論に共鳴し、参政に任じられて薩土盟約の締結に加わった。当初から武力倒幕路線を歩んでいた薩摩に対して、左膳は和平路線を貫き、薩土盟約書の成文化を担当。盟約破綻後も大政奉還路線を進め、10月3日に主君・山内容堂ほか4名と連名して、老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出した。これを受けて10月14日将軍・徳川慶喜は大政を奉還し、朝廷に受け入れられた。この直前、左膳は報告のため帰藩している。11月、再び上京するが、すでに左膳と在京重臣との間には方針の隔たりがあり、国事掛は後藤・福岡・神山左多衛の3人に任され、左膳は「君側専務之任」となった。鳥羽・伏見の戦いにおいて、当初土佐藩は容堂の方針から不参加であったが、乾退助ら主戦派はかまわず参戦して官軍に名を連ねる。これ以降、土佐藩の討幕派が中心勢力に転じたことで左膳は立場を悪化させ、明治元年(1868年)6月27日には士族の身分を剥奪されて、安芸郡野根村(現東洋町。土佐藩領の東端)へ追放処分となる。明治3年(1870年)2月に処罰が解除され、高知帰参を許された。廃藩置県で高知藩が廃された後は、旧藩主・山内豊範の家令となった。のち山内家を致仕して華族会館の理事を勤め、また民間の事業に関わった。明治19年(1886年)には日本初の私鉄である日本鉄道会社の理事委員となっている。幕末の土佐藩で中心的な役割を果たした人物の割には世に知られることもなく、晩年は不遇であった。明治29年(1896年)7月、死を前にして従五位に叙せられた。享年63。墓は祐天寺(東京都目黒区)。幕末の政治活動を記した『寺村左膳手記』『寺村左膳道成日記』は、幕末の土佐藩の中心にいた人物の記録として、貴重な史料となっている。
出典:wikipedia
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