松沼 雅之(まつぬま まさゆき、1956年7月24日 - )は、東京都墨田区出身の元プロ野球選手(投手)。現役時代は西武ライオンズに在籍。現在はベースボール・チャレンジ・リーグ・群馬ダイヤモンドペガサスで投手コーチを務める。兄は元西武投手の松沼博久で、西武在籍当時は「松沼兄(=博久)」「松沼弟(=雅之)」と呼ばれていた。通称「オトマツ」「おとやん」。東京都墨田区から千葉県流山市に転居。当時の茨城県の公立高校は越境入学が可能であったため、取手二高に進学。エースとして夏の甲子園県予選決勝に進む。土浦日大高の工藤一彦と投げ合うが1-3で惜敗、甲子園出場を逸した。卒業後は東洋大学に進む。東都大学リーグでは秋季リーグで、8勝1敗の好成績をあげ、チームのリーグ初優勝に貢献した。同年の明治神宮野球大会では準決勝で早大に敗退。秋季リーグで2度目の優勝を飾る。同年の明治神宮野球大会でも決勝に進出するが、エース中本茂樹を擁する同志社大に敗れ準優勝にとどまる。から日米大学野球選手権大会の代表に2年連続で選出され、1978年の大会では3勝をあげ日本の優勝に貢献、同大会の最高殊勲選手となった。リーグ通算85試合登板し39勝26敗、防御率1.84、376奪三振。39勝は芝池博明の41勝に次ぎ、田村政雄と並ぶ2位タイ。15完封勝利は当時のリーグ記録。最高殊勲選手2回、最優秀投手3回、ベストナイン3回。1年上のチームメートに達川光男がいた。オフ、読売ジャイアンツとの激しい争奪戦の末、兄の博久と共に西武ライオンズに入団。はルーキーながら先発陣の一角に起用される。同年は4勝にとどまるが、翌年から5年連続で2桁勝利を記録した。からの2年連続日本一に貢献。の日本シリーズでは4試合に登板し1勝をあげる。しかし以降は故障で満足な成績を残せず、限りで引退。東尾修らとともに西武の黄金時代を支えた脇役である。また、「兄やん」と呼ばれた博久に対し、「オトマツ」の通称があった。5月11日の対近鉄バファローズ戦で、有田修三への危険球により球史上3人目の退場者になっている。引退後はからまではテレビ朝日・テレビ埼玉・文化放送で野球解説者として活動。コーチとしてはは西武一軍投手コーチ、から途中までは二軍投手コーチ、一軍の投手陣の不振で二軍に降格した博久の後任として2003年シーズン終了後まで一軍投手コーチを務めた。コーチ退任後は再びから現在までテレビ埼玉・文化放送の解説者となる。より、茨城トヨペット(より休部中)の総合コーチに就任。より、独立リーグ・ベースボール・チャレンジ・リーグの群馬ダイヤモンドペガサスで投手コーチを務める。インベーダーゲームの頃からのコンピューターゲーム愛好家で、ドラゴンクエストシリーズはIXまですべてプレーしている。当時プロ野球選手でゲームをやる人はほとんどいなかったという(2009年9月24日 斉藤一美 うるわしの夜での発言)。当時西武球団社長であった坂井保之によると、当初博久は東京ガスに残留、雅之もプロ入りせずに東京ガス入社と語っていたが、その情報を得た西武球団側は巨人による囲い込み(ドラフト外での入団)と判断。毒島章一を松沼兄弟専属担当スカウトにさせ、巨人との交渉が煮詰まった頃合いを見計らい毒島と戸田博之、根本陸夫が会食に誘い西武入団を決断させた。また巨人は2人合わせて1億2千万の契約金を提示していたところ、西武は1億5千万円を提示したと記している
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。