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アッツ島沖海戦

アッツ島沖海戦(アッツとうおきかいせん)とは第二次世界大戦中、コマンドルスキー諸島近海で起きた日本海軍とアメリカ海軍との間の海戦。連合国軍側の呼称はコマンドルスキー諸島海戦("Battle of the Komandorski Islands")。1943年(昭和18年)3月26日、アメリカ海軍が日本軍のアリューシャン列島方面への輸送を阻止しようとして艦隊を派遣したことで生起した、典型的な昼間水上戦闘である。日本艦隊の稚拙な指揮により、米艦隊は退避に成功した。アッツ島への日本軍増援は失敗し、アッツ島玉砕の遠因となった。日付変更線を跨いで行われた海戦なので資料によって日付と時刻にズレがある。日本側の記録がUTC+9使用に対してアメリカ側はUTC-10使用で19時間の時差あり。1942年(昭和17年)6月上旬、日本軍はミッドウェー島の占領をめざすミッドウェー作戦の一環としてアリューシャン作戦を発動、アッツ島、キスカ島を占領した。日本軍は輸送作戦を繰り返し行い両島の守備を強化していった。一方のアメリカ軍は、空襲と、潜水艦の投入によって日本軍に対抗した。7月5日の海戦では駆逐艦「霰」がキスカ島沖で沈没、駆逐艦「不知火、霞」が大破した。1942年10月17日にはキスカ島沖にて駆逐艦「初春、朧」が空襲を受け、朧が沈没、初春が大破した。また輸送船も多数撃沈された。1943年(昭和18年)1月にはキスカ島南東のアムチトカ島に飛行場を建設し空襲を強化した。また、2月にはチャールズ・マクモリス少将が指揮する艦隊が進出し、日本軍の輸送船を攻撃しはじめる。このため、この方面を担当する日本海軍第五艦隊(細萱戊子郎中将)は全力で輸送船の護衛にあたることとなり、3月10日には第二十一「イ」船団(特設水上機母艦「君川丸」、輸送船「粟田丸、崎戸丸」)が重巡「那智、摩耶」、軽巡「多摩、木曾」の護衛の下アッツ島に到着して輸送を成功させた。続いて3月22日、第二十一「ロ」船団(輸送船「浅香丸、崎戸丸、三興丸」)が重巡洋艦「那智(旗艦)、摩耶」と第一水雷戦隊(司令官森友一少将)等に護衛されて幌筵島を出航した。この船団には新任のアッツ島守備部隊隊長山崎保代陸軍大佐が同乗していた。マクモリス少将も日本軍の輸送を予想し、本海戦の数日前から重巡洋艦「ソルトレイクシティ」などからなる艦隊でアッツ島沖を遊弋していた。日本艦隊は天候悪化のためアッツ島突入を1日おくらせ27日と決定、また日本艦隊主力は合同できなかった第二護衛部隊(駆逐艦薄雲、三興丸)との合流をめざし、27日午前2時に一旦反転した。当時の日本艦隊は主隊(第二十一戦隊《那智、摩耶、多摩》、第21駆逐隊《若葉、初霜》)、護衛部隊(第一水雷戦隊《阿武隈》、第6駆逐隊《雷、電》)、「ロ」船団(浅香丸、崎戸丸)という区分である。3月27日未明、アッツ島とカムチャッカ半島の中間海域で、重巡「那智、摩耶」、軽巡「多摩、阿武隈」ほか護衛駆逐艦「若葉、初霜、雷、電」及び輸送船2隻(浅香丸、崎戸丸。アッツ島守備部隊隊長山崎保代陸軍大佐同乗)からなる日本艦隊(重巡2、軽巡2、駆逐艦4、輸送船2)と、重巡「ソルトレイクシティ」、旗艦/軽巡「リッチモンド」、ラルフ・S・リッグス大佐指揮下駆逐艦4隻(ベイリー、コグラン、デイル、モナガン)からなるアメリカ艦隊(重巡1、軽巡1、駆逐艦4)は、互いを警戒していたものの、偶然遭遇した。連合国軍艦隊が日本軍輸送船団を撃滅しようと進撃し、これを日本軍護衛艦隊が阻止・撃激しようという点で、スラバヤ沖海戦と似た状況であった。北方へ向かう日本艦隊は先頭から「那智(旗艦:細萱中将)、摩耶、多摩、若葉、初霜、阿武隈(一水戦旗艦:森少将)、雷、浅香丸、崎戸丸電」からなる単縦陣で、その後方から「ベイリー、コグラン、リッチモンド、ソルトレイクシティ、デイル、モナガン」という米艦隊単縦陣が追尾するという状況であった。午前2時頃、艦隊最後尾にいた駆逐艦「電」が敵艦隊発見を第一水雷戦隊司令部(阿武隈)に報告したところ、同司令部は第二護衛船団(三興丸、薄雲)と判断して第五艦隊司令部に報告しなかったとされる。3時5分(日の出一時間前、現地時間及びアメリカ側の記録では26日8時ごろ、以下UTC+9で記述)、「リッチモンド」のレーダーは日本艦隊を補足、マクモリス少将は輸送船をねらって艦隊を突進させるが、相手が重巡2隻を含むとは気が付いていなかった。3時10分、「浅香丸」はマスト発見を報告、つづいて「阿武隈」も米艦隊の存在を全軍に通報した。3時20分、「阿武隈」は『米重巡オハマ型1・駆逐艦2』、続いて『ペサンコラ型軽巡1・駆逐艦2』を報告、細萱司令長官は日本艦隊は護衛してきた輸送船に「電」の護衛をつけて北西方向へ退避させ、「那智」以下は面舵反転、右旋回しながら南下してアメリカ艦隊に接近した。これは米艦隊の退路(アリューシャン方面)を断つと同時に、風上側(当時北東の風)を占位して有利に攻撃をおこなう意図があった。3時40分、互いが徐々に距離を詰め、ほぼ同時刻に射撃を始め、砲撃戦を主体に戦闘が展開された。アメリカ艦隊のマクモリス少将は迎撃する日本艦隊を無視して輸送船の撃滅を狙う。細萱中将はこれを阻止するため突撃を下命するが、双方とも高速発揮が可能な巡洋艦部隊であり、互いに決定的なダメージを与えられなかった。日本艦隊では、第一水雷戦隊の戦闘準備が遅れていた。燃料節約のためボイラーを一罐のみに落としていたため速力を上げられず、32ノット発揮可能になったのは午前4時頃であったという。このため重巡2隻(那智、摩耶)が戦闘の主軸を担った。午前3時42分に砲撃を開始すると、「那智」は2-4分後に酸素魚雷8本を発射、「摩耶」は4時7分に魚雷を発射したが命中しなかった。「那智」も集中砲火を浴び、「雷」からは「那智」艦橋から黒煙が上がる光景が見られた。「ソルトレイクシティ」の第三・第四斉射が命中したとみられる。艦橋後部への命中弾で主砲射撃指揮装置が故障、砲側照準となる。「摩耶」でも射撃指揮の混乱から数分間射撃を中止した。遠距離砲戦に終始する「那智、摩耶」に対し、三番艦「多摩」は米艦隊に接近する針路をとって主隊から分離、合同したのは6時30分であった。対する米艦隊も、戦闘の中止を検討していた。トーマス・C・キンケイド提督はマクモリス少将に対し、五時間以内の航空支援と「退却戦を考慮する要あり」の通信を送る。米艦隊は西へ向かったのち、戦闘を切り上げるべく南へ転針。好機とみた細萱司令長官は5時2分に全軍突撃を下令、ところが米艦隊の砲撃が一水戦旗艦「阿武隈」に集中し、同水雷戦隊は速度を落としてしまった。一方で「ソルトレイクシティ」も重大な損傷を受けた。「那智、摩耶」の主砲弾が中甲板を貫通、機関室に漏水が発生、機関が一時停止したため、旗艦「リッチモンド」及び駆逐艦4隻は煙幕を展開して日本艦隊の視界を遮った。もしこの時に「那智、摩耶」を含めた全日本艦隊が突撃していれば、米艦隊は全滅していたと思われる。形成不利となった米艦隊は、これ以上の西方への逃走は日本軍勢力圏に近づいてしまうと判断し、南方へ転針する。細萱司令長官は再び突撃命令を下令。だが日本艦隊は最短接近針路をとらず、米艦隊の後を追い掛けるような航路を選択したため、距離は一向に縮まらなかった。午前6時、第一水雷戦隊は艦隊に接近、6時15分に魚雷を発射、その後「阿武隈」は6時37分に砲撃を開始、「雷、初霜」は6時40分に砲撃を開始した。その後も追撃戦が展開されたが、アメリカ艦隊の駆逐艦に煙幕や雷撃で追撃を妨害された。さらに米艦隊は最後の弾着による水柱に向けて急転舵をおこなう射弾回避運動を実施して、ほとんど命中弾を受けなかった。しかし「ソルトレイクシティ」に「那智」の主砲弾が命中、ヒューマンエラーも重なって同艦の機械は一時停止し、海上に停止する。「那智」の艦載偵察機一号機はこれに気付き無線で伝えたが「那智」はこれを受信できなかった。マクモリス少将は駆逐艦デイルに煙幕展開を命じ、また残りの3隻に魚雷攻撃を命じた。米駆逐艦3隻は煙幕の中から飛び出して突撃し僚艦を掩護、これに「那智」は気をとられ、米重巡にとどめをさせなかった。アメリカ艦隊の左舷側を航行する第一水雷戦隊は、「那智、摩耶」に後続すべく90度右に変針し、アメリカ艦隊の右舷側に出ようとした。一方、アメリカ艦隊は左に90度変針して東方へ退避をはかった。6時50分、マクモリス少将は「ソルトレイクシティ」乗員の「リッチモンド」移乗を下令、ところが奇跡的に機械が動き出し「ソルトレイクシティ」は脱出に成功した。7時頃、細萱中将は旗艦「那智」の損害及び空襲、そして艦隊の砲弾不足・燃料不足を警戒し、「ソルトレイクシティ」の撃沈まであと一歩のところで撤退を決定、アッツ島への輸送も中止された。アッツ島沖海戦は、航空機や潜水艦の介入なしに行われた、太平洋戦争中の数少ない海上戦闘となった。戦力は日本艦隊側が優勢だったが、アメリカ艦隊に接近できず遠距離砲撃のみとなり、双方とも決定的な損害を与えることが出来なかった。「那智」は20㎝砲弾832発、「摩耶」は904発、「ソルトレイクシティ」は832発、日本艦隊は魚雷43本、米艦隊は魚雷5本をそれぞれ発射、特に魚雷は1本も命中しなかった。戦略的にみると、米艦隊は『日本軍のアッツ島への増援を阻止する』という目標を達成した。逆に日本側は、アリューシャン作戦の強行を主張していた筈であった細萱中将の誤った判断(敵空襲部隊の到着は海戦終了の遥か数時間後)、決定力不足(自艦の僅かな損害等を気にし今そこにあった勝利をみすみす逃してしまった)が災いとなってしまい、同時に主目的であったアッツ島陸軍守備部隊への増援・武器弾薬・物資等の補給が絶たれ、山崎部隊長のアッツ島上陸も多大に遅れ、伊号第31潜水艦によって4月18日着となった。またアッツ島・キスカ島への補給は潜水艦のみによって実施される事になった。本海戦の結果は、後のアッツ島の戦いに少なからず影響したとみられる。また本海戦は、スラバヤ沖海戦、サマール島沖海戦と並び、「戦前『米軍の三倍』とまで言われていた日本海軍の遠距離砲撃の命中精度が実は米軍並み、下手をすればそれ以下」だった例として挙げられることがあり、一部で論議を呼んだ。黛治夫(重巡「利根」艦長等)は砲術科の立場から本海戦を振り返り、第五艦隊の将校に問題があったと海軍反省会で指摘している。黛によれば、戦闘後の研究会で二神延三(海兵51・摩耶砲術長)が、徹甲弾と通常弾を区別せずに発射していたと証言していた。違う性質の弾頭を同時に発射するため、散布界が安定しなくなるという。また第五艦隊司令部が米軍機の空襲を恐れすぎて米艦隊に接近しなかった事。さらに、日本海軍は平素の射撃訓練において主砲方位盤が破損・故障した事を想定した砲側照準訓練(各砲塔の照準器を用いる)を軽視しており、従って本海戦において「那智」の方位盤が被弾損傷すると何も出来なくなったという、訓練上の欠陥も指摘している。「摩耶」は接近するアメリカ巡洋艦と遠ざかるアメリカ巡洋艦を取り違えた上に、高角砲のためのデータを主砲砲術長に送り、さらに残弾があったにも関わらず全弾撃ち尽くしたと勘違いするという失態を犯した。同じく「阿武隈」以下一水戦艦艇も敵艦隊の予想進路を間違え、逆に発射運動のため敵から遠ざかるという失敗を犯した。二隻の輸送船の護衛に回った「電」の詳報は戦闘に参加した他の第五艦隊各艦の消極的姿勢を強く非難している。海戦後、細萱中将は第五艦隊司令長官(北方部隊指揮官)を解任され予備役に編入、後任として河瀬四郎中将が着任した。また第一水雷戦隊司令官森友一少将は病に倒れ、後任として木村昌福少将が着任した。同年の1943年2月に日本軍のガタルカナル島撤退が行われ、ソロモン諸島の戦いは1つの山場を越え、次にニュージョージア島の周辺で日本軍とアメリカ軍の攻防が予想される状況であった。そのため、アメリカ領を初めて占領されたアメリカ軍にとっては意義のあるアリューシャン方面の戦いの前哨戦にあたる海戦であったが、日米の双方ともに重要視されなかった。政略的にみると、アメリカ領土の一部を占領されている事に対する国民感情、ソ連が対日参戦した場合に飛行機の中継基地にしたいとの思惑から、米軍はアッツ島・キスカ島の攻略作戦を発動する。5月12日以降の戦闘により、山崎部隊長率いるアッツ島の日本軍守備隊は5月29日に玉砕(アッツ島の戦い)。7月29日にキスカ島撤退作戦が実施されて日本軍はキスカ島から撤退。その後、太平洋戦争終結まで同方面で大きな戦闘が起きることはなかった。外山三郎(海軍少佐、駆逐艦漣、時津風航海長等、防衛大学校教授)はアッツ島沖海戦の細萱中将と、ケ号作戦の木村少将を対比して『軍隊は即指揮官なりということを改めて痛感させられる。すなわち弱将のもとでは勝利は覚束なく、一度勇将が現われれば、霧が晴れるごとく戦場の問題の多くは、難なく解決されるのである』と結んでいる。

出典:wikipedia

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