橋田 壽賀子(はしだ すがこ、1925年5月10日 - )は、日本の脚本家、劇作家、タレントである。京城府(現:ソウル)生まれ、大阪府堺市西区出身。本名、岩崎 壽賀子(いわさき すがこ)。旧姓、橋田。1949年、松竹に入社し、脚本部に配属される。1964年、『袋を渡せば』で作家デビュー。同年、東芝日曜劇場のために執筆した『愛と死をみつめて』の脚本が話題となり、度重なる再放送の後に映画化されるなど、ヒット作となった。これ以後、テレビドラマの脚本家として話題作・ヒット作の数々を世に送る。代表作は『愛と死をみつめて』『あしたこそ』『おんなの家』『時間ですよ』『たんぽぽ』『女たちの忠臣蔵』『となりの芝生』『おんな太閤記』『おしん』『いのち』『春日局』『おんなは度胸』『おふくろの味』『渡る世間は鬼ばかり』などである。日本統治時代の京城(現:ソウル)で1925年(大正14年)に、旧外地生まれの日本人として生誕する。勉学のため帰国するまでの9年間を朝鮮で過ごした。大阪府立堺高等女學校(現:大阪府立泉陽高等学校)、日本女子大学文学部国文学科卒業(卒業論文は「新古今和歌集における<つ>と<ね>の研究」)、早稲田大学第二文学部演劇専修中退。女学校時代は文章が苦手だった。その当時、兵隊への慰問文がコンクールで入賞したこともあったが、それは母が壽賀子の名前を使って書いたものであった。早稲田大学在学中には学生劇団「小羊座」に入って役者を務めたほか、久板栄二郎の脚本塾に通って演劇の執筆を始めた。1949年、松竹に入社して脚本部所属となり、松竹最初の女性社員となった。最初の脚本の仕事は、1950年公開の映画『長崎の鐘』(監督:大庭秀雄)における新藤兼人の手伝いであった。初めて単独で脚本を執筆した作品は、1952年公開の映画『郷愁』(監督:岩間鶴夫、主演:岸惠子)である。1959年、秘書への異動を提示されたのを機に松竹を退職し、独立作家となる。ただし、それから3年間ほどはテレビ局へ原稿を売り込みに行っても採用されなかったため、小説や漫画の原作を書くなどした。1964年、『袋を渡せば』で作家デビュー。同年、東芝日曜劇場『愛と死をみつめて』の脚本が話題となり、テレビドラマの脚本家として名を高めた。41歳の誕生日であり、東京放送の創立記念日でもある1966年5月10日、当時TBSプロデューサーだった岩崎嘉一と結婚。1989年9月、死別。晩年の岩崎とは、別荘地として知られる「熱海自然郷」で暮らした。現在でも熱海市で柴犬の「さくら」と暮らし、東京〜熱海間を往復する生活を送っている。自宅は急峻な玄岳の頂上付近にあり、自動車を自ら運転して往復している。1992年、亡夫の岩崎の遺産などを元手に「橋田文化財団」を設立。理事長に就任し、橋田賞を創設した。2014年5月、『女性自身』で、同年4月開始の『なるようになるさ。』第2シリーズの視聴率低迷が主たる理由で脚本家業の引退を示唆していると報じられた。橋田本人は同誌の取材に対し、「引退したいですよ。でも、させてもらえないでしょうね」と語った。2015年8月20日、フジテレビ『ノンストップ!』のインタビューで「今の俳優さん達、名前も分からない。これじゃ(脚本)書けないから仕事が来ない」「ミステリーとか不倫ものとかばかり。普通のホームドラマが生きられない時代になった」と語り、脚本家引退を示唆したが、その後引退報道に関する週刊女性の取材に対して「お仕事はまったく来ないです。いま、ホームドラマなんかやるところはないですから。私の時代じゃないと思いますよ。でも、引退はしません。また私が書きたいものを書かせてくれるところが出てきたら書かせていただきます。ただ、今はお休みして、充電中です」と引退を否定した。2015年10月30日、日本政府より脚本家として初となる文化功労者に選出されたことが発表された。大衆に受け入れられてこそ価値のある作品であるという信念のもと、数多くの作品でヒットを飛ばした。『おしん』(1983年 - 1984年、NHK)や『春日局』(1989年、NHK)、『渡る世間は鬼ばかり』(1990年 - 2011年、TBS)など、後世に残る作品を数多く残している。NHKやTBSの制作作品で脚本を担当することが多い。テレビ東京での仕事はまったくないが、これは同局がドラマをほとんど放映しないことも原因している。橋田の脚本は台詞が長く、演出家や俳優による台詞の変更を許さないことで有名である。橋田作品の主役級女優である泉ピン子は、「自分の台詞が台本1ページもある」と語った。助詞(「てにをは」)一字の言い間違いすらも許されず、アドリブも一切禁止とされる。これは松竹時代、脚本を担当した映画の撮影過程で、監督から「映画は絵で見せるものだから(台詞を)もっと短くしろ」と言われたり、俳優たちが台詞を勝手に削ったりしたことによる映画界への反発・怨念によるもので、「映像なんて信じていない」という信念から来るものである。担当脚本の作品では、もはや死語となったような上品な表現の台詞が多く発せられる。主なものとして、「作る」を必ず「拵える(こしらえる)」と言わせる、「味噌汁」を「御御御付(おみおつけ)」と言い換える、「〜して頂く」や「〜させて頂く」などの謙譲語を多用するなどがある。これは、「長幼の序をはっきりさせ、きれいな日本語をテレビだけでも使いたい」という思いによるものである。「主婦が家事をしながらでも、テレビ画面を見ることなく台詞のみで話の筋が分かるように配慮している」とインタビューなどで述べている。橋田脚本のドラマには、泉ピン子などの「橋田ファミリー」に属する俳優が頻繁に起用される。ベテランの役者が多く、ドラマの長台詞で鍛えられているため安定した演技を披露するが、橋田ドラマ以外では余り目にすることのない役者も多い。ただし、ファミリーのみでドラマを制作することには無論限界があり、しかも主人公を演じられる俳優は限られているため、乙羽信子、八千草薫、池内淳子、佐久間良子、渡辺美佐子などのほか、橋田の盟友・石井ふく子と共に高く評価していた三田佳子や大原麗子、石井親子と二代に渡り交流のあった杉村春子、昭和の名優である山村聰など、有名女優陣・俳優陣が主役、準主役、あるいは「特別出演」などの形で招かれて度々出演している。また、男性俳優では丹波哲郎や小林桂樹などが重要な役どころで出演しているほか、コメディアンとして活躍していたいかりや長介や伊東四朗が「橋田ドラマ」でゲスト出演して以降、頻繁にドラマ出演するきっかけともなった。橋田が俳優として努力する様子に感じ入ったというガッツ石松も、橋田作品では良い役を与えられ、幾度となく出演している。また、NHKでの作品を執筆する際には今福将雄を重用している。子役は坂上忍、伊藤淳史、えなりかずきを目に掛けていた。イケメン・美女・美少女を登場させる場合には、ジャニーズ事務所、石原プロモーション、オスカープロモーションからの出演が目立つことも橋田ドラマの特徴である。森繁久彌とは接点がなかった。そして、多くの橋田作品のプロデューサーを務める石井ふく子と橋田は公私ともに親しい。橋田が「石井さんには(石井プロデュースではない作品でも)何でも相談する」と公言していること、橋田のお気に入り俳優の大半が石井の紹介によるものであること、「橋田ファミリー」の俳優陣が同様に石井プロデュース作品の常連でもあることなどから、「橋田ファミリー」は「石井ファミリー」とも称される。「石井ファミリー」との用語は、石井が話題の中心になる場合に用いられる。自らの作品を題材にした『おしん音頭』『渡鬼音頭』で作詞を手がけるが、両曲とも作品の雰囲気から大きく逸脱しているとして物議を醸した。来宮神社の氏子としても知られ、当地熱海市上多賀・同西山町の賛同する付近の民芸品店などには、橋田ドラマの掲示が数多く掲げられている。また、毎年節分に来宮神社で開催される豆まきには、20年以上参加している。自宅は相模湾沿いから比較的近く、地元から手伝いに訪問する同年代のファンも多い。池畑慎之介(ピーター)の別荘が近くにある。日本で離婚が増加してきたことについて、「結婚に男女平等はありえない」「若い人たちが相手に何かを求めすぎている」「女性にとって結婚というのは尽くすことだと思う」と苦言を呈している。また、夫・岩崎からは「どんなことがあっても、俺の前で脚本を執筆するな」と言われ、主婦業に手を抜かず、岩崎が寝ている時や不在の時に執筆活動した。これを岩崎が死去するまで徹底的に守り通したという。1990年代後半、その独特の風貌(加藤浩次からは「ミニラ」と呼ばれた)やキャラクター、物言いが女子高校生などに受け、改編期に橋田の旅番組が制作されたり、フジテレビ『森田一義アワー 笑っていいとも!』(1998年 - 2001年)にレギュラー出演したりするなど、一時期はレギュラー番組を多数抱えた(「スガコブーム」)。しかし、相手のトークを遮って突然喋り始めることもあり、基本的にバラエティ番組に不向きな性格だったことが次第に明らかになって、「スガコブーム」は終わりを告げた。ただし、橋田本人は「話好き」「目立ちたがり屋」と公言しており、声がかかればテレビ番組にも積極的に出演していることから、現在でも他の著名脚本家と比べればメディアへの露出度は群を抜いて高い。特にTBSの番組には、自身の番組宣伝も兼ねて出演することが多く、期首期末特番『オールスター感謝祭』などにも頻繁に登場した。公私共に親しい泉ピン子と一緒に出演することも多かった。以下は「橋田壽賀子スペシャル」の冠が付く作品。
出典:wikipedia
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