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新しいミサ

新しいミサ(あたらしいみさ、、、)とは、カトリック教会において第2バチカン公会議(1962年-1965年)後の1969年に発布された、新しい典礼様式によるミサである。教皇パウロ6世が発布したので「パウロ6世のミサ(英・Mass of Paul VI)」とも言う。教皇パウロ6世は、1969年4月3日付けの使徒憲章『ミッサーレ・ロマーヌム』に署名をして「ミサの新しい式次第」()の使用を許可した。ミサの原文はラテン語である。新しいミサのミサ典書のラテン語典型版(Editio typica)は、発表直後の1970年に改訂され、1975年にも改訂があり、更に2002年に改訂版が出版された。教皇ベネディクト16世は、ローマ・ミサ典書の版の名前に従って、2007年7月7日の自発教令『スンモールム・ポンティフィクム』では「1970年に教皇パウロ6世が発布したローマ・ミサ典礼書」と呼んだ。また同教皇は「通常の形式(Forma ordinaria)」とも言った。1976年5月24日の枢機卿会議(sacrum consistorium)で、パウロ6世自身が "Novus Ordo" が発布されたと表現しているので「新しいミサ」のことを「ノヴス・オルド」ともいう。「現行のミサ」とも言う人もあるが、教皇ベネディクト16世は次のように言っているので、正確な言い方ではない。その理由は、「現行のミサ」というのはあたかも「教皇ヨハネ23世の権威のもとで1962年に公布され、公会議中も使用された、公会議前のローマ・ミサ典礼書」が廃止されたものであることを暗示させるからである。新しいミサは、自発的に突発的に生まれてきたのではなく、約50年ほど(1920年ごろから1969年まで)の「典礼運動」と呼ばれる教会の一グループの努力によって準備されてきた。典礼運動の初期はソレムのベネディクト大修道院長であったドン・ゲランジェの影響下のもとにあったが、次第に、将来のヨハネ23世となるロンカリ神父の友人であった (1873-1966))の影響を受けていった。ボデュアンの影響で、典礼の目的として礼拝よりも司牧の首位性が強調された。それ以前は、例えばピオ12世の『メディアトル・デイ』によれば、典礼の主要な目的は礼拝であり、司牧や信徒の教育は副次的なものとされていた。またボデュアンの影響を受けて、典礼は教会の一致のために適応すべきであるという考えが生まれた。これら2つの目的のために、典礼運動は次のような改革を求めた。すなわちラテン語の代わりに各国語を使用すること、ことばの典礼を強調すること、司式司祭が会衆の方に向くこと、、である。1964年、教皇パウロ6世は、コンシリウムと呼ばれる「典礼憲章実行委員会("Consilium ad exsequendam Constitutionem de Sacra Liturgia")」を作り、典礼聖省発布の1964年9月26日付けの指針『インテル・エキュメニチ』で、典礼に大きな変更を加え、1965年から効力を持たせようとした。更に、1967年に『典礼憲章』を実行するための第2の指針『トレス・アビンク・アンノス"Tres abhinc annos"が出された。1967年10月21日に、アンニバレ・ブニーニが事務長を務める典礼憲章実行委員会(コンシリウム)は、新しいミサの草案(「ミサ・ノルマティーヴァ(Missa Normativa)」つまり「規範ミサ」と呼ばれた)を完成させローマで司教会議(シノドス)に提出した。この草案は、『典礼憲章』の論理的な結論として「儀式は簡素の美を備え、簡単明瞭であり、不必要な重複を避け」(『典礼憲章』34)、「祭儀における聖書の朗読を、いっそう豊富で、変化に富み、また、より適切なものに改訂」(『典礼憲章』35)した、「より簡潔にされなければならない。時代の経過につれて重複するようになったものや、有益でもないのに付加されたものは削除され」(『典礼憲章』50)たものであった。ブニーニは、あたかも信徒たちがグレゴリオ聖歌を歌いつつも典礼様式を全く理解してこなかったし、また典礼の単なる目撃者にすぎなかったかのように主張していた。10月26日、シノドスではミサの規範版の原案について討議が行われたが、180名の司教のうち、71名が賛成、62名が条件付賛成、4名が棄権、43名が反対であった。パウロ6世はブニーニに見直しを求め、その後ブニーニは、6回にわたってミサに新しい聖変化の言葉で3つの典文 Canon(後の「奉献文」Prex Eucharistica)を作る許可と、聖変化の言葉から「信仰の神秘」Mysterium fidei を取り除く許可を求めた。パウロ6世は同意し、ブニーニは新しい典文の聖変化の言葉と合わせて今まであったローマ典文の聖変化の言葉を変えた。教皇パウロ6世は1969年4月28日の枢機卿会議(sacrum consistorium)で、ミサの新しい式次第(Novus Ordo Missae)について予告した。同年5月2日に、4月3日付けで使徒憲章『ミッサーレ・ロマーヌム』が発表され、長い総則(Institutio generalis)と共に公にされた。同年9月、オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿とは「新しいミサの批判的研究」を承認しパウロ6世への手紙にサインした。10月21日、両枢機卿はパウロ6世に新しいミサの批判的研究を提出し、新しいミサの中止を求めて次のような内容の手紙を送った。パウロ6世はこの手紙と研究書を受け取ると、これらを教理聖省長官セペル枢機卿(Cardinal Seper)に送った。教理聖省は“両枢機卿によりなされた批判”の精査を行うようにと依頼した。セペル枢機卿はグート枢機卿に相談し、ブニーニに要求して新しいミサ式次第の最終的な出版を一時的に差し控え、教理聖省の神学者3名に批判研究小論を調査させることを命じた。パウロ6世は、使徒座憲章の初版には存在していなかった「この憲章に規定したことは、本年の11月30日待降節第1主日より発効するものとします」という22語を、密かに付け加えていた。他方で、Nostra haec autem statua et praescripta nunc et in posterum firma et efficacia esse et fore volumus.(上記の規定と決定とが今も将来にも確定され、効力を持つものであることを望みます。)と自分の意志を表明したが、この規定は聖変化の言葉の新しい形式についてのみ関わることであったので、パウロ6世は「真に法律上の意味合いにおいて、間違いなく御自分のミサ典書の義務化をお望みにはなってはいなかった」と言える。11月12日、教理聖省長官であるセペル枢機卿は、国務聖省を通して教皇に教理聖省の神学者3名による批判研究の分析結果を送った。これによれば「批判研究は、表面的で過大で不正確で過激で誤った命題が多数含まれている」とした。パウロ6世は、オッタヴィアーニ枢機卿らによって批判されていたミサ典礼総則第7条を修正するように要請した。しかし、問題の総則第7条に対応している新しいミサの式次第それ自体の修正は行わなかった。そして11月19日に、新しいミサは正統であると訓話をして、10日もするとイタリアではそれが“義務”となる事を明示した。また11月26日の第2回目の訓話でパウロ6世は、この変革が「非常に大きな犠牲」であると言った。しかし、パウロ6世の新しいミサとその総則は、1969年4月3日の承認後に、何度も修正が加えられ、公式の規範版が発表されたのは、1970年3月のことであった。新しいミサの目的は二つある。また、パウロ6世の信頼を得て典礼憲章実行委員会(コンシリウム)の事務長として新しいミサを作るために働いた中心人物であったアンニバレ・ブニーニ神父は、自分の作った新しいミサについてこう言う。また、オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙にも、同様にこう語っている。ローマ教皇庁の公式資料のフランス語版であるドキュマンタシオン・カトリック(Documentation Catholique)の表紙には、「新しいミサを一緒に作ったオブサーバーの6人のプロテスタントの牧師らが、パウロ6世とともに写っている写真」が掲載されたことがある。オブサーバーとして積極的に働いたテゼのマックス・チュリアンは新しいミサについて次のように述べた。「この新しくなったミサにおいて、福音派のプロテスタントたちを困らせるようなものは全くない。」新しいミサによる最も大きな変更は、それまでラテン語でのみ執り行われていたミサ式文を、各国の言語で執り行われるようになったことである。それ以前に、教皇ピオ12世は典礼の大切さを強調し、1947年の回勅『メディアトル・デイ』では「複数の典礼儀式で母国語の使用が会衆にとって有益であるかも知れない」ことを示唆しつつ、同時に俗語の使用の許可はローマ教皇庁のみが持つとした。ピオ12世は、聖土曜日の復活の徹夜祭における洗礼の約束の更新を各国語ですることを許可したことがある。第2バチカン公会議では、1963年12月4日『典礼憲章』(Sacrosanctum Conciliumが発表されたが、それによると、『典礼憲章』36 §1には原則として「ラテン語の使用は、ラテン典礼様式において遵守される」とある。また『典礼憲章』36 §2によれば、「国語の使用も可能である」と定められた。とはいえ、原則はラテン語の遵守であり、国語訳の使用は認可の下になされるべきものとされたが、現実には、世界中で各国語で新しいミサが捧げられるようになった。ただし原則は、司祭はいつ、どこでもラテン語でミサをすることが許されている。新しいミサでは、第2バチカン公会議の提示する新しい司祭職としての「宣教」する「神の民」が典礼を執行する。職務的司祭は、神の民の集会の座長であるが、ミサは神の民の集会であり、信徒がミサを捧げるのであって、信徒が主体的に行動すべきであるとされる。従って、総則の第7条にはこうある。エキュメニズムのために、新しいミサからは「贖罪のいけにえ」という概念が体系的に排除されている。マルティン・ルターに始まってプロテスタントにとって、「ミサ」はいけにえではなく晩餐であり、全て信徒は「司祭」である。新しいミサはそれに合わせた。テゼ共同体のマックス・テュリアンは「おそらく、(新しいミサの)実りの一つは、非カトリックの共同体もカトリック教会がするのと同じ祈りで聖餐を祝うことが出来るようになることだろう。神学的にそれは可能である」と評価した。教皇ベネディクト16世は、枢機卿の頃から新しいミサについてこう語ってきた。聖変化の言葉が各国語に訳される際、ラテン語の "pro multis"(多くの人々のために)を「全ての人々のために」と訳す誤りが1967年からほぼ全世界で生じていた(ポルトガル語、ポーランド語、日本語は例外。典礼英語国際委員会 International Commission on English in the Liturgy (ICEL)による英語訳に始まった)。2006年11月、アリンゼ枢機卿はこれを訂正することを求めた。ラテン語の翻訳から各国語に翻訳をする時は直訳ではない。「Liturgiam authenticam」においても指摘されているように多くの翻訳の問題があるとされ、日本では「日本における適応」として認可を受けるようにバチカン(教皇庁)と交渉中である。「新しいミサ」が発表されて日本語に翻訳されると「悪文なので驚いた。へんないいまわし、敬語を使わないこと」「あまりにもチグハグ」「信者でない人が味わう忘れがたい印象、信仰に導くミサの本質的なものが次第に失われていく」など、国語化されたミサ式文に寄せる不満が多く出された。「あらゆる苦情殺到の中で」日本典礼司教委員委員長である長江恵司教は1970年に「新しいミサの典礼とその意義」という講話を行い「一番悩んでいるのは言葉の問題である」「翻訳には限界があるからである」と言った。新しいミサが導入されてからほぼ40年がたった2007年2月19日から23日まで開かれた日本司教評議会の司教総会(会長は野村司教)で一番時間がかかった問題が、典礼式文翻訳の課題であった(例えば Et cum spiritu tuoの訳、mea culpaの訳、Sursum cordaの訳など、ラテン語を使用に耐える日本語に翻訳することには困難が多い)。1990年代以降、司教区や小教区、「手作りのミサ」、「踊るミサ」、「能を取り入れたミサ」、「あっちこっちミサ」、「南無アッバミサ」など、さまざまな形態・様式のミサが試みられている。しかし、日本カトリック司教団は2015年6月15日に『新しい「ローマ・ミサ典礼書の総則」に基づく変更箇所』を発行して、ミサ中の動作・姿勢や歌など典礼の統一をはかって同年11月29日から実施したため、これらの新しい形態・様式のミサは事実上禁止された。

出典:wikipedia

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