笹下(ささげ)は、横浜市港南区東部の地名。一丁目から七丁目まであり、郵便番号は234-0052。上大岡の南に位置し、東側と南側は磯子区に接する。笹下川・笹下釜利谷道路(旧金沢道)沿いに古くから開けた土地であり、明治時代には久良岐郡の中心として発展した。笹下の地名は室町時代~江戸時代中期の領主間宮氏一族の祖先の出身地近江国篠箇郷(ささげごう)の地名をとって名付けられた笹下城の城名に由来する。異説として間宮氏が近江源氏佐々木氏の分流に当たるので、佐々木が転化し佐々気と書かれる様に成り「気」の字が「き➡け」と訛り笹下と成ったとする物もある。『久良岐郡地名考』や『日本城郭大系』では、近江国篠箇郷の地名由来だろうと指摘している。滋賀県の近江源氏佐々木氏の氏神総本社である『沙沙貴神社』でも間宮氏の出自を「篠箇」としている。笹下川(大岡川)の河川名由来も地名と同じく城に由来する。現在、神奈川県が歴史的経緯と左右手川等の支流の存在を無視し、笹下川全体を大岡川本流と定めてしまった為に、行政管理上の河川名から笹下川の名が消滅してしまっている。本来の大岡川は古来、小名:関下(せきのした)で笹下川と日野川が合流する地点より下流の部分を指す。間宮氏は戦国時代の小田原北条家家臣で笹下城主。後に徳川家康家臣となり旗本として存続した。室町時代に関東に土着し「相模十四騎筆頭」と呼ばれた。海戦、籠城戦、築城、外交、鷹飼育、梅林造営、寺社の支援、学問に事績を残した関東の武家。根拠地の笹下城は豊臣秀吉の小田原攻めによる後北条氏滅亡後に廃城とし、江戸時代には城に代わって笹下陣屋が設置された。後に笹下陣屋・氷取沢陣屋・杉田陣屋の間宮家に分家し更に分家する。宗家は笹下間宮家。間宮氏からは玉縄北条氏の付家老だった間宮康俊、滝山城主北条氏照の付家老で織田信長への外交使者を務め日本百名城の一つ八王子城も縄張りしたとされる間宮綱信、北条氏滅亡後に徳川家康の側室と成り女児を生んだ於久、家康の直臣と成り鷹匠頭を務め杉田梅の樹を植林し杉田梅林を造営した間宮信繁、但馬奉行・佐渡奉行・本牧奉行を務めた初代笹下陣屋主の間宮直元、間宮氏で最後の代官職と成った大和国代官・摂津国代官・堤奉行を務めた間宮次信等を輩出した。江戸時代に昌平坂学問所で新編武蔵風土記稿や新編相模風土記稿等の地誌編纂を取り仕切った間宮士信は間宮綱信の子孫、間宮海峡を発見した間宮林蔵は間宮康俊の子孫とされている。笹下川東側の南北に細長い地域で、東側は磯子区森が丘・森に接する。一丁目には、総戸数430戸の笹下台団地が1969年に完成した。二丁目の関宮山東樹院付近は江戸時代には高札場が置かれ、明治時代は郡役所などが置かれていた。現在、郡役所は住宅地となっている。湘南信用金庫(現在は閉店)前には、北条実時の病を治した言い伝えの残る「鰻の井戸」が保存されている。湘南信用金庫(現在は閉店)近くに明治時代に石川楼と言う料亭が存在し、皇族が杉田梅林に観梅に行く際の休憩所としても利用されていた。環状2号の南側の三丁目には日下小学校があり、ファミリーレストランなどのロードサイド型店舗も点在する。笹下川西側の住宅地。北は港南区港南、南は磯子区洋光台、西は港南区日野中央の日野公園墓地に接する。磯子区洋光台一丁目~笹下四丁目の戦国時代に後北条氏家臣で「相模十四騎筆頭」と呼ばれた間宮氏の居城笹下城の主要部分が存在した。梅花山成就院の裏の丘頂上部一帯が本丸と伝わる。江戸時代初期に間宮直元によって笹下間宮家の陣屋が洋光台1丁目の元笹下橋付近に置かれた。陣屋の門は成就院に移築され現存。幕末の生麦事件で実行犯として後から出頭した間宮一の墓も同寺に現存する。笹下城城址は昭和30年代まで地形や江戸期に城址に造営された杉田梅の梅林は旧状を留めていたが、IHIの社宅やマンションが建てられた際に地形は大部分が破壊され、南側も洋光台の宅地開発で失われた。その後IHI社宅も解体され、野村不動産と三井不動産レジデンシャルによる再開発で宅地化された際に、本丸跡の空堀残存部の壁面は三井不動産レジデンシャルによって2016年に掘削されコンクリートの擁壁で埋められ姿を消した。Fit Care DEPOT笹下店辺りにはIHI団地造成まで笹下城の抜け穴と呼ばれる手彫りの洞穴が存在した。笹下城の外堀りとして機能した笹下川沿いには1980年に、川の向かいにある日下小学校の第2運動場が設けられている。五丁目を東西に環状2号が貫き、通りの南側の丘の上には笹下中央公園がある。笹下中央公園は笹下城城塞群の出丸の一つ北見掃部屋敷跡であり、大切岸と犬走りが存在した。又、同地は笹下杉本遺跡と言う縄文時代~弥生時代にかけての住居跡や貝塚が発見された貴重な古代の史跡でもあった。笹下中央公園には教育委員会により遺跡は地下保存されていると書いた説明看板が設置されているが、実際に笹下杉本遺跡の住居跡が多く発見された位置も、笹下城の北見掃部屋敷の曲輪の犬走や大切岸の位置も現在の環状2号線道路の上空辺りで消滅している。笹下七丁目~天照大神宮~横浜市立笹下中学校にかけての丘陵は笹下城城塞群の出城松本城が存在した。この丘陵の天照大神宮付近には現在も「中の丸」の名が残り、丘の頂上部近く、桜道が交差する辺りは「陣が台」の地名が残り練兵場や有事の指揮所として機能していたと日本城郭大系や久良岐郡地名考等で考察されている。六・七丁目の新興住宅地は、駅から遠く長らく交通が不便な場所であったが、2001年に江ノ電バスによる路線バスが開通した。横浜市立笹下中学校や、鎌倉街道沿いの笹下港南中央通バス停などに笹下の名を冠した施設が見られるが、前者は港南区港南五丁目、後者は港南区港南中央通にあり、現在の笹下の町域からは外れる。磯子区の田中・栗木・峯・矢部野(現在の洋光台)は上笹下地区と呼ばれ、町内会名などに名前が残る住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、笹下6-25-7の地点で17万3000円/mとなっている。発掘された石器から、縄文時代より先住民族が暮らしていたと考えられている。元は磯子区南部~現在の港南区の内旧武蔵国域に及ぶ広範囲が杉田郷だったと考えらえている。間宮氏の入部後に笹下郷が分離、天文年間(1532年 - 1555年)に、笹下村・関村・雑色村・松本村に分かれた。関村は現在の笹下二丁目を中心とした地域、雑色村は四〜七丁目および三丁目の南側、松本村は一丁目北側と港南の一部に概ね相当するが、飛地や入会地が多く、境ははっきりしていない。天文年間には領主の間宮豊前守信元が、現在の笹下四丁目を中心に篠箇城(ささげじょう。のちに笹下城と記されるようになった)城塞群を築城した。篠箇城は谷戸構え群各式山城の作りで、天守閣を用いる近畿地方に多く見られる石垣作りの城とは異なる北条流の丘と自然の川を造成した玉縄城や小机城の様な石垣を構えない関東の土の性質を活用して築城した要塞だった。笹下城城塞群の推定範囲は南東は磯子区洋光台一丁目、北西は港南区港南5丁目周辺に及ぶ広大な範囲に出丸や出城群が存在したと考えられている。豊臣秀吉による小田原攻めの際に、笹下城主間宮康俊は寄親の北条氏勝や山中城主松田康長等と城兵3,000と籠城。しかし豊臣軍本隊7万が小田原に向け侵攻すると山中城には豊臣秀次率いる先方35,000の大軍が押し寄せて来た為に勝てないと悟り、北条氏勝と他の重臣等を撤退させ、自らは手兵200ばかりを率いて山中城主松田康長と共に秀次軍を迎撃した。この際、秀次の旗下には中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊・一柳直末・長谷川秀一等の秀吉直属の旗本衆が組み込まれ、当時中村一氏の配下だった渡辺了が事細かに合戦の様子を回顧録に書き記している。間宮隊は寄親北条氏勝や孫の間宮直元等を撤退させて、自らは三ノ丸~岱崎出丸当たりで最初迎撃し大軍の敵勢を痛撃し一柳直末等を討取る活躍をするが、十倍以上の敵勢に山中城の改修中に襲われた結果、半日で落城した。籠城した間宮・松田勢は全滅した。江戸時代には間宮直元が徳川家康の直臣と成り、本牧奉行として横浜市旧久良岐郡域の内、磯子区・港南区(旧武蔵国域)・南区の大半を治めた。更に直元は但馬奉行・佐渡奉行も務めたが、大坂夏の陣で大坂城に地下道を掘り矢倉を破壊する作戦に従事中に陣没した。新編武蔵風土記稿によると、江戸時代中期には関村では34戸、雑色村42戸、松本村64戸が暮らしていたと記されている。東京・横浜と三浦半島を結ぶ街道沿いにあり、明治時代には郡役所や警察署、登記所、料亭などがおかれ、久良岐郡の行政や商業の中心地となったが、横浜市編入により郡役所が閉庁し、警察署の統廃合に加え根岸湾沿いに国道ができると店舗が減少し、元の農村に戻っていった。明治中期ごろからは花卉の販売を行う農家が多かった。江戸時代~明治時代には杉田~笹下一帯は分家杉田間宮家が植林した杉田梅林が観梅の名所としても有名に成り観光客で賑わい、皇族も来訪した。皇族の休憩所と成ったのが、関に在った石川楼だった。町内を南北に走る笹下釜利谷道路と東西に走る環状2号線が、町の中央部の打越交差点で交わる。町内に鉄道駅はなく、上大岡駅から笹下釜利谷道路を通り上中里団地や洋光台駅、横浜駅から上大岡駅経由で栗木を結ぶ江ノ電バスの利用が主となる。西部の六・七丁目は、上大岡駅から港南区総合庁舎前・桜道経由で洋光台駅を結ぶ江ノ電バス(こまわりくん)が利用できる。
出典:wikipedia
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