


『社会新報』(しゃかいしんぽう)は、日本社会党とその後継・社会民主党の中央機関紙。『社会新報』の前史には、1945年11月2日の日本社会党結党直後に党機関紙として発行された『社会新聞』、1951年の左右分裂後、左派社会党の準機関紙として発行された『社会タイムス』がある。日本社会党の最初の党機関紙『社会新聞』は、最初『日本社会新聞』として、1946年1月から1952年3月まで発行され、月刊(ブランケット判2ページ)で発刊された。まもなく『社会新聞』と改称し、週刊化の上、有料化された。この『社会新聞』は、党組織の事業とは別の独立採算制の経営によるもので、最盛期には週2回刊、4ページで、発行部数17万部に達したこともあった。もう一方の『社会タイムス』は、左右分裂後に左派社会党の機関紙として発行された『党活動』(1951年11月1日『党活動資料』として創刊、1952年3月10日付から『党活動』に改題)が準機関紙『社会タイムス』(日刊、ブランケット判4ページ)へと継承された。左派社会党と総評が協力して学者・文化人を結集し、株式会社社会タイムス社を設立した。同社は哲学者の清水幾太郎が取締役を務め、レッドパージで新聞社を追われた記者や当時の進歩的知識人が多く編集に携わった。しかし、日刊『社会タイムス』は、編集体制の不十分さや編集方針が党や総評と食い違うことがあったこと、販売網の不完全さなどが起因して資金難に陥り、1954年5月に、左右社会党統一を待つことなく2年2ヶ月間の歴史に幕を閉じた。これが1955年10月の日本社会党の左派・右派の再統一を機に『社会新報』と改題して、ブランケット判2ページの無料の週刊紙として発行された。その5年後の1960年、『社会新報』は有料で週刊のブランケット判4ページの発行となり、1966年から週2回刊・ブランケット判8ページに移行した。それ以来、週2回刊が続き、2002年6月に週刊・タブロイド版16ページに移行して、現在に至る。発行部数は、日本社会党時代を含め、最盛期が56万部、2006年11月時点で15万部。購読者は地域により大きな偏りがあり、炭労と国労が強い影響力を持っていた産炭地の北海道の空知地方や福岡県の筑豊地方では広く読まれた。かつて本紙にはブロック単位で地方のページがあった。長年にわたり「日刊化」が検討され、左派社会党の準機関紙『社会タイムス』が2年2ヶ月間、日刊紙として発行されたが、その挫折以降、日刊化を復活することができず、1996年の日本社会党の3分裂(民主党、社会民主党、新社会党)へと至った。社民党機関紙として『社会新報』は週刊紙としてタブロイド版16ページで発行を続け現在に至っている。国政選挙、地方選挙などの公示前に政策を紹介する号外も発行される。また、各地方組織が発行する「社会新報」の地方版が存在する。社民党が強い地域では「社会新報まつり」などのイベントも行われる。機関紙誌に大企業の広告掲載を認めない方針をとっていたが、1987年度からは内規を決めたうえで、大企業広告を掲載した。『社会新報』で初めての大企業広告は、1987年7月28日付に掲載された資生堂の広告であった。社会党時代の1989年頃、 一般紙と同様にサイズはブランケット判で、週2回刊、8ページ、1ヵ月600円で日本社会党機関紙局から発行されていた(当時の1面)。現在の発行は社会民主党全国連合機関紙宣伝局で、週刊、毎週水曜日発行、タブロイド版(2002年6月から)16ページ、1ヵ月700円(+送料160円)。定期購読の契約(半年または1年)をすれば、党員に限らず誰でも購読することができる。党員や協力党員などが購読する場合は、地域・職域の総分局・分局が発送事務を行い、部数に応じて全国連合から還元金や助成金が支給される(2010年現在の1面)。社会党時代は40万部を維持していたが、1996年の民主党、社民党、新社会党の3分裂により、部数を大幅に減らした。党勢の衰退と党員の高齢化により配布体制が弱体化したものの、2011年現在、公称14万部を維持している。これは全国に根強い「新報ファン」が存在するためであり、社民党の財政・党勢維持の強力な基盤となっている。近年の紙面では福島瑞穂党首が文化人などと語り合う連載「福島みずほ いのちの対談」は、単行本にまとめられた。そのほか、2007年秋に起きた守屋武昌防衛事務次官と防衛商社山田洋行による贈収賄事件や(社)日米平和・文化交流協会の秋山直紀専務理事による巨額脱税事件などでスクープ記事を掲載した。また、1~3面の政治記事では詳細な国会報告が掲載される。早野透のコラム「政治を読み解く」欄や、宇野雄の経済コラム、海外通信員・上野清士の中南米リポートなどが掲載されている。2011年3月の福島第一原発事故を受けて、田中稔記者が原発利権を追及する紙面を連載し注目を集めた。2010年1月、第12回定期全国大会で採択された第1号議案の中で「大幅な紙面改革を早い時期に実施」することが決定され、これにもとづき、2010年3月3日付(第4579号)で、紙面改革を行った(題字・レイアウトの変更、文字の拡大、読者欄の衣替え、自治体ページの新設)。タブロイド版・16ページ・黒青2色刷り。紙面印刷は、社民党全国連合と同じく社会文化会館に入居していた「株式会社印刷センター」が行っている。1970年代以降の歴代機関紙局長は、山本政弘(党副委員長、元衆院議員)⇒大塚俊雄⇒高木政勝⇒市川博美⇒中川直人。歴代編集長は、後藤茂(元衆院議員)⇒温井寛⇒園田原三(村山首相秘書官)⇒石田武⇒桝村実⇒福田誠之郎⇒菊池⇒曽戸正明⇒矢島傑2011年の3月11日の地震により社会文化会館の三宅坂ホールが使用できなくなったほか、土地(国有地)の買い取りが認められず、本部及び機関紙編集の引っ越し問題が浮上した。その後、社会文化会館は2013年春から解体され、敷地は財務省に返還された。社会新報編集部は同年春に首相官邸裏の永田町ビル(千代田区永田町2-4-3)の賃貸フロアに転居した。2013年、社民党の党首選が17年ぶりに実施され、吉田忠智参院議員と石川大我豊島区議が出馬し、選挙の結果、福島みずほ参院議員に代わり吉田参院議員が党首に就任した。臨時国会で特定秘密保護法が成立したが、社会新報は同法の廃止に向けた紙面作りを進めた。12面に連載記事「秘密保護法の闇を撃て」を掲載し、田中稔、三宅勝久、野田峯雄、篠原常一郎、北健一の各氏らが同法の矛盾点を鋭く指摘し、注目を集めた。1971年、日本社会党東京都本部の機関紙として「東京新報」が創刊。1976年、「東京新報社」として独立し、発行されるようになった。
出典:wikipedia
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