久保 敏文(くぼ としふみ、1943年11月21日 - )は日本中央競馬会 (JRA) に所属した騎手。その引退後に実業家に転身し出版社の社長に就任、中央競馬の馬主資格も取得した。騎手時代のおもな騎乗馬に1969年の桜花賞優勝馬ヒデコトブキ、1977年の天皇賞(秋)優勝馬ホクトボーイなどがいる。師匠・久保道雄の婿養子となる1968年までは、旧姓の古賀(こが)で騎乗した。1943年、佐賀県鳥栖市に生まれる。少年の頃に両親が離婚したことに伴って福岡県福岡市に移住し、芸妓置屋を経営していた叔母の元に身を寄せた。義叔父が馬主として競走馬を所有しており、義叔父と付き合いのあった調教師・上田武司から騎手になることを勧められ、中学卒業後に久保道雄厩舎に騎手見習いとして入門。翌年から競馬会の騎手養成長期課程に第8期生として入所した。同期生には大崎昭一、安田伊佐夫、鹿戸明、清水出美などがいる。騎手課程修了後、久保厩舎に所属。デビュー直前の調教中に怪我を負い、他の同期生より2カ月遅い5月4日に初騎乗を迎えた。初騎乗馬は久保厩舎に所属していたアラブの強豪ヒメカップで、初騎乗初勝利を挙げた。翌1964年には同馬でタマツバキ記念(春)を制し、重賞初勝利も挙げている。やがて久保厩舎の主戦騎手となり、関西の有力若手騎手として頭角を現した。1968年8月には同年の日本ダービー優勝馬タニノハローモアの手綱を取ったが、2着に敗れて1戦のみで降板。しかし伊藤修司から「タニノハローモアを降ろされたのなら」と、騎乗停止を受けていた保田隆芳に代わって皐月賞優勝馬マーチスの手綱を任された。これをきっかけとして伊藤厩舎からの騎乗依頼が増え、1969年には同厩舎のヒデコトブキで桜花賞を制し、八大競走初制覇を果たした。その後もコンスタントに勝ち続け、1975年から1977年にかけての阪神大賞典3連覇や、ホクトボーイによる1977年秋の天皇賞制覇など、数々の重賞に勝利。1980年代初頭には関西現役騎手の重賞勝利数で武邦彦に次いでいた。追い込みを得意とし、ファンの多い騎手であった。1983年暮に義父の久保が逝去し、フリーに転身した。以後は若手騎手の台頭もあって徐々に勝ち鞍が減少し始め、また日本騎手クラブ副会長(兼・関西支部長)を務める様になると、騎乗数も減少していった。1994年に騎手を引退。通算成績は4687戦562勝、うち重賞32勝。これにより日本騎手クラブ副会長・関西支部長の後任には河内洋が就任した。競馬会からは競馬学校教官への転身を勧められていたが、のちに知人の実業家男性より雑誌制作への参画を勧められ、こちらに従って九州に戻った。後に福岡の出版社「ベストプランニング」の社長に就任。九州で唯一の風俗店求人誌『赤いりんご』と『アップルページ』を創刊した。会社は2000年時点で年商6億円の企業に成長、地方競馬では1996年頃から馬主となっていたが、1999年には高年収・資産額を求められる中央競馬の馬主資格を取得した。事業で成功し、中央の馬主資格を取得することは実業家転身に当たっての目標であった。かつて騎手であった人物が引退後に馬主登録した例は、日本では少数である。中央所属所有馬に騎乗する騎手が着用する勝負服の配色は、「青地・黄襷・赤袖」である。※括弧内は久保騎乗時の優勝重賞競走、太字は八大競走。1968年12月8日、中京競馬6日第10競走の中日杯で、久保はフジタカに騎乗して1位入線した。フジタカは決勝線手前で斜行して他馬の進路を妨げていたが、場内に審議の発表が行われないまま、確定を示すランプが点された。しかし、その後になって競馬会が進路妨害によるフジタカの失格を発表。これを不服とした一部の競馬ファンが暴徒化して場内で投石や放火を始め、機動隊が出動する事態となった。久保ら当事者はパトカーによる護送で競馬場を後にし、翌日には繰り上がり1位となったカルタゴに騎乗していた久保と同期の清水出美や、競馬会の委員らと共に警察署で事情聴取を受けた。久保は暴動発生の責任を負わされて競馬会から3か月間の騎乗停止を通告されたが、「暴動が起きたのは審議のランプを点けずに確定のランプを点けたせいだ」と抗議し、処分は1か月間に減じられた。この事件によって中京開催は残り2日間が中止となり、予定されていた中京最後の繋駕速歩競走が行われないままで終わった。
出典:wikipedia
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