本項では、ダイムラーのブランドであるメルセデス・ベンツ(以下メルセデス。ダイムラーについて言及するときも同様)によるレーシングコンストラクターについて説明する。なお正式なチーム名称は、2012年からスポンサー企業名も含め「メルセデスAMG・ペトロナス・フォーミュラワン・チーム」となっている。各SNSなどでは「Mercedes-AMG F1」という呼称を公式に使っており、本項タイトルもそれに準ずる。メルセデスは1930年代にグランプリレースに参戦し、1954年から2シーズンに渡ってF1世界選手権に参戦した。メルセデスは2009年11月16日にリリースを出してロス・ブラウンが所有するブラウンGPを買収してメルセデスGPとすることを発表し、株式をメルセデスが45.1%、アブダビ企業のアーバー・インベストメンツが30%取得したことを明らかにした。メルセデスのグランプリへの復活は1955年以来54年ぶりである。本項ではメルセデスベンツのすべてのレース参戦記録について述べる。メルセデスAMG(GP)以前のメルセデスのグランプリでの活動はいくつかの時代に分けられる。最初の活動は1935年から1939年までの活動である。次が1954年と1955年のF1参戦。そして1993年以降の2009年に至るまでのエンジンサプライヤーとしての活動である。メルセデス・ベンツの車両は第二次世界大戦前からモータースポーツに盛んに登場していた。1934年から1939年の第二次世界大戦勃発まで、メルセデス・ベンツとアウトウニオンのドイツ勢は、ヨーロッパのモータースポーツ界を完全に席巻した。メルセデス・ベンツチームはレース監督アルフレート・ノイバウアー(サインボードの発明者である)により、まさに軍隊的規律の元でレースに臨み、結果を出し続けた。戦前のグランプリ・レース用主要マシンはW25(1934年 - 1936年)、W125(1937年)、W154(1938年・1939年)、W165(1939年)で、いずれもフロントエンジンながら、時代の最先端を行く性能を有していた。当時の主要ドライバーは、ルドルフ・カラツィオラ(1935年、1937年、1938年ヨーロッパチャンピオン)、マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ()、ヘルマン・ラング()(1939年ヨーロッパチャンピオン)、ディック・シーマン()。シーマンのみ、英国出身で、他は皆ドイツ人である。1937年に登場したマシンW125に到っては600馬力を超えるエンジンを持ち、最高速度は現代のF1と遜色ない340km/h以上に達し、そのためW125はターボ・マシン登場以前の1970年代後半になるまで史上最強・最速のレーシング・カーであるとの伝説を保ち続けていた。同年のアーヴス・レンネン(アーヴスレース;フリー・フォーミュラ=制限なしで行われた)では、ヘルマン・ラングが特製された流線型ボディのW25に乗り、260.7km/hという現代でも驚かされるような平均速度で優勝しているが、クローズド・サーキットの記録としてはその後20年以上及ぶものはなく、オーバルを使用するインディ500において優勝者の平均速度がこの記録を上回るのは1972年のマーク・ダナヒュー(マクラーレン・オッフィー)の平均261.08km/hを待たねばならないほどである。メルセデスとアウトウニオンは、同年のアーヴス・レンネンの直線では、実に380km/hを出していたと言われている。1939年のトリポリグランプリ(イタリア領リビアのメラハサーキットで開催。メラハサーキットは一周13kmの高速コースで、当時『モータースポーツのアスコット』と呼ばれていた)は、レース開催の8か月前になって、強すぎるドイツ勢を締め出すべく、当時の国際フォーミュラである3リッター・マシンではなく、イタリア国内ルールである1.5L・マシンで実施されることとなった。イタリア側としては短期間での新型メルセデス、新型アウトウニオンの製造は不可能と考えたためであるが、メルセデス・ベンツチームはその当時の3Lマシン、W154のミニチュアともいうべきW165を短期間で完成させ、同グランプリにおいてもメルセデス以外の全車を周回遅れとして1-2フィニッシュ(ラング、カラツィオラ)を飾ることとなる。ラングの平均速度は197.8km/hを記録している。なお、W165の実戦はこの年のトリポリグランプリのみであった。また、ルドルフ・カラツィオラはモータースポーツのみならず、速度記録にも挑戦し、メルセデス・ベンツのレーシングカーを改造したレコードブレーカーに乗り、数々の速度記録を打ち立てている。1938年には、フランクフルト:ダルムシュタット間のアウトバーンにおいて、フライング・キロメーターで432.7km/hを記録している。1935年から再開されたヨーロッパ・ドライバーズ選手権において、メルセデスのシルバー・アローとアウトウニオンのシルバー・フィッシュは激しく争った。この選手権は1939年8月20日のスイスグランプリまで続いたが翌月の第二次世界大戦の勃発によって消え去った。1934年にニュルブルクリンクで開催されたアイフェルレンネンで、マシンの規定重量を1kgオーバーしてしまい何とか軽くしようとして塗装を剥がしアルミむき出しのボディーで出場したという逸話を持っている。これがシルバー・アローのはじまりである。第二次世界大戦によってメルセデスは大打撃を受けた。生産施設は破壊され、加えて戦前・戦中にナチスに協力したと見られてその補償も義務付けられた。メルセデスにとってグランプリへの復帰は悲願であったが、当分のレース活動はは市販のメルセデス・ベンツ・300SLを用いたル・マン24時間レースなどに限定された。1954年に満を持して再びノイバウアーを監督としてメルセデスはF1世界選手権への参戦を決定した。ドライバーには1951年チャンピオンのファン・マヌエル・ファンジオを迎えた。マシンはメルセデス・ベンツ・W196という革新的なクルマであった。このクルマが7月にランス・グーに現れたとき、それはオープンホイールですらなかった。このマシンでファンジオはポールトゥーウィンを飾り戦前のメルセデスの強さは健在であることを見せ付けた。ただしこのマシンはサーキットによってはボディーが大きすぎることがわかったので、オープン・ホイールのタイプも作られた。ファンジオやスターリング・モスの活躍により出走した12レースで9勝(詳細は以下に記載する)を挙げた。両年ともにファンジオがワールドチャンピオンを獲得した。しかし1955年のル・マン24時間レースで、ピエール・ルヴェーの運転するメルセデス300SLRがクラッシュし、分解したマシンのエンジンとサスペンションが200km/hを超える速度のまま観客席に飛び込む事故を起こし、200名以上の観客を死傷させる大惨事となった。このレースでメルセデスチームは、ファンジオ・モス組がトップを走行していたにもかかわらず、すべての車両を途中でリタイアさせている(レースはホーソーン(ジャガー)が優勝)。また同年末で一切のモータースポーツ活動から撤退する事態となった。またこの事故による影響は大きく、スイスなどの一部の国家ではラリーやヒルクライム競技以外のレースが禁止される事態となった。メルセデスがレース活動にカムバックするのは1980年代を待たなければならない。1980年代に入ってようやくメルセデスはモータースポーツへの復帰を表明し、スポーツカーレースへの参加を始めた。ザウバーと共同でWSPC(世界プロトタイプカー選手権)に出場するなど、徐々にモータースポーツとの関係を取り戻し始めた。またこの頃、ミハエル・シューマッハ、ハインツ=ハラルド・フレンツェン、カール・ヴェンドリンガー、3人の若手ドイツ系ドライバーの育成プログラムを開始し、本格的なレースへの復帰を模索し始めた。この頃にル・マンに復帰し、1989年に総合優勝を遂げるが、1999年の予選、フリー走行、決勝レースでメルセデス・ベンツ・CLRが宙を飛ぶ事故を三度も起こし、犠牲者は出なかったが、やはりこのときも直後に全車をリタイアさせている。その後のル・マンには参戦していない。(復帰初年度の1985年にザウバー・C8がミュルサンヌで宙を舞うアクシデントを起こしている。)1990年代序盤にはフォーミュラカー用エンジンビルダーであるイルモアに資本参加し、インディカーおよびF1へ復帰。1993年にイルモアエンジンをConcept by Mercedes-Benzとしてこの年から同じくF1へ参加したスポーツカーレースでのパートナー、ザウバーに提供した。翌1994年から正式にF1への復帰を宣言し、ザウバーにメルセデス・ベンツのバッジを付けたエンジンを供給した。この間、1991年からF1に参戦し、翌1992年にF1初勝利を挙げていたシューマッハは1994年にドイツ人初のドライバーズタイトルを獲得。また、1993年からヴェンドリンガー、1994年からフレンツェンが共にザウバーのシートを得て、ここにドライバー育成プログラムは一定の結果を生み出す事になった。1995年からはザウバーからマクラーレンに供給先を変えた。マクラーレンは1997年からスポンサーをマールボロからウエストに変更し、同社のタバコパッケージをもじってマシンのカラーリングをシルバーに変更した。以降メルセデスエンジンを搭載したマクラーレンが「シルバー・アロー」と呼ばれることになった。1998年にはミカ・ハッキネンがドライバーズタイトルを獲得し、コンストラクターのタイトルも獲得した。1999年にはコンストラクターのタイトルは逃したものの、ハッキネンは選手権2連覇を果たした。2008年にはルイス・ハミルトンがドライバーズタイトルを獲得した。2009年にはフォース・インディア、ブラウンGPにも供給した。ブラウンGPに所属するジェンソン・バトンがドライバーズタイトルを獲得し、同チームもコンストラクターズタイトルを獲得した。マクラーレン・グループの株式をダイムラーが40%を取得していたことから、マクラーレンを完全買収してメルセデス・ベンツ単独でのF1参加を画策しているという噂は根強かったが、2009年11月16日にブラウンGPの株式をアブダビ政府系の投資会社アーバーインベストメントと共に75.1%をダイムラーが取得し2010年のF1世界選手権からメルセデスGPとして参戦するとしている。また同時に2011年までにマクラーレン・グループ株式を全てマクラーレン・グループに売却をしエンジン供給については2015年まで延長する発表を行ったが、マクラーレンは1年早い2014年をもって20年に渡るメルセデスとの協力関係を終了した。2009年11月16日にブラウンGPの株式をアブダビ政府系の投資会社アーバーインベストメントと共に75.1%をダイムラーが取得し、2010年のF1世界選手権から参戦している。タイトルスポンサーは2009年までBMWザウバーのスポンサーであったペトロナス。2009年11月23日にニコ・ロズベルグを起用することを発表したが、もう一人のレースドライバーについては発表されなかった。この発表前後から、2010年のレースドライバーに2006年いっぱいで引退したミハエル・シューマッハが復帰するとの噂が流れた。12月23日に、ミハエル・シューマッハをレースドライバーとして起用することを発表した。彼にとって、2006年最終戦ブラジルGP以来のF1参戦となる。長年苦楽を共にしたフェラーリを抜けての決断に複雑な思いを抱くファンも多かったが、チーム代表ロス・ブラウンとのコンビは黄金時代のフェラーリ陣容を髣髴とさせるものであり、世界中の期待を集めた。チーム代表としてロス・ブラウンが続投する。ニック・フライもCEOとしてチームに留まるが、こちらは取締役から退任し、実質オブザーバーへ転向している。なおエンジンサプライヤーとしてもマクラーレンとフォース・インディアへの供給を続け、2014年からはウィリアムズにもパワーユニットを提供している。ただしマクラーレンへの供給は2014年シーズンで終了。代わって2015年はロータスにパワーユニットを提供したが、ルノーの買収に伴い供給は1年で終了している。2016年はウィリアムズとフォース・インディアに加え、マルシャから名称変更したマノー・レーシング(MRT)にもパワーユニットを供給する。前年のダブルチャンピオン・チームを買収して生まれただけに、2010年シーズン開始前から優勝候補と目された。事実、ロズベルグが開幕戦バーレーンGPから予選と決勝で5位に入り、第3戦マレーシアGP、第4戦中国GPで連続3位表彰台を得た。以後チームはいわゆる「4強」の一角として活躍するが、シューマッハは開幕4戦の予選、決勝でチームメイトの後塵を拝し、「復帰は誤りであった」との意見がメディアや論客から飛び出す始末となった。シューマッハのペース不足には原因としてマシンMGP W01のアンダーステア傾向やシャシー自体の損傷があるとされる。チームが第4戦終了後のアップデートに際し、ホイールベースを延長した結果、一時的にシューマッハのペースは向上し、反対にロズベルグの成績は落ちている。しかしロズベルグがシューマッハを従える展開は変わらず、シューマッハは予選・決勝ともにほぼ4戦に1戦しかチームメイトを上回れなかった。また、MGP W01が昨年のような圧倒的な速さを見せることもなかった。最終的にロズベルグはシューマッハの約2倍のポイントを獲得し、チームに優勝はなく、シューマッハは表彰台にも上れずじまいと、開幕前の人々の予想がことごとく裏切られる結果で復帰一年目を終えた。なおテストドライバー兼リザーブドライバーとしてニック・ハイドフェルドが起用されていたが、彼は2011年からF1のタイヤサプライヤーとなるピレリのテストドライバーに指名され、これに専念するため、8月にチームを離れた。以後、シーズン終了までこの役職は空席のままだった。2011年シーズン終了時点でコンストラクター部門で4位、表彰台回数はゼロであり、上位3チームとの差は前年よりも広がった。前年はシーズンを通してロズベルグの後塵を拝していたシューマッハだったが、今シーズンはポイントランキングでは負けたものの差を縮めることができた。この年よりチーム名をメルセデスGPから「メルセデスAMGペトロナスF1チーム」に変更した。革新的なWダクトを搭載したF1 W03はシーズン前のテストから好調さが噂され、実際に開幕戦と第2戦ではシューマッハがそれぞれ予選4番手と3番手につけた。シューマッハが予選TOP3に入るのは2006年日本GP以来となる。しかし決勝になるとレースペースの悪さが露呈して、ポイント獲得がやっとという状況になってしまった。チームは燃料の重い状態でのペースの悪さとタイヤマネージメントに問題があると認めている。しかし第3戦中国GPでは予選でロズベルグが自身、チーム共に初となるポール・ポジションを獲得。決勝でも独走態勢を築き、危なげなくポール・トゥ・ウィンを達成し、同じく自身とチーム共に初優勝を果たした。メルセデスがF1で勝利を挙げるのは実に57年ぶり、1955年のイタリアGPでのファンジオの優勝以来となる。シーズン終了後にシューマッハが引退し、チームを去った。なおシーズン中の2012年9月に、3度の年間王者であるニキ・ラウダが非常勤会長に就任した。2008年の年間王者でマクラーレンの生え抜きであったルイス・ハミルトンがメルセデスに移籍。ロズベルグがモナコとイギリスで優勝し、ハミルトンもハンガリーで優勝した。このシーズンはレッドブル・レーシングとセバスチャン・ベッテルの記録的な圧勝であったものの、コンストラクターズランキングにおいてフェラーリと激しい2位争いを展開したメルセデスは僅差で2位となり、2010年以降で最高の成績を収めた。ドライバーズランキングではハミルトンが4位、ロズベルグが自己最高の6位に入っている。シーズン終了直後、ブラウンがチームを離れることを発表。大変革の2014年シーズンのレギュレーションに最も上手く対応し、19戦中優勝16回、ポールポジション18回、ワンツーフィニッシュ11回とシーズンを通じて圧倒的なパフォーマンスを発揮。全レースでどちらかのドライバーかが必ず表彰台に上っており、第16戦ロシアGPでコンストラクターズタイトルを獲得した。ロズベルグはダブルポイントのアブダビグランプリではポールポジションを獲得するもスタートでハミルトンにかわされ、そのまま追従する展開となるが危惧されていたERSのトラブルが発生、ブレーキも厳しくなりターボラグも酷くピットからのスタートもマニュアル操作で発進という状況に陥る。ハミルトンとロズベルグでドライバーズタイトルを最後まで争ったが、ハミルトンが6年振りにドライバーズタイトルを獲得した。ドライバーはハミルトンとロズベルグのまま変わらず。2014年と相変わらずの強さを見せるが中盤戦でややつまずく。イギリスGPではスタートで出遅れセカンドローにいたウィリアムズ2台に先行を許したり(最終的には2台とも逆転)、ハンガリーGPでは、V6ターボエンジンになってはじめて2人とも表彰台に上がることができなかった。それでも2人とも安定した完走率を誇っており第15戦ロシアGPでコンストラクターズチャンピオンを早々に決定。続くアメリカGPでハミルトンがドライバーズタイトルを決定させた。ロズベルグも終盤に3連勝を達成するなど強さを見せた。予選の圧倒的な速さは相変わらずで、この年もメルセデスがポールポジションを逃したのはフェラーリのセバスチャン・ベッテルにポールポジションを許したシンガポールGPの1回のみであった。ドライバーはハミルトンとロズベルグが残留。ロズベルグが開幕4連勝を飾る一方、ハミルトンは2戦連続で予選で問題が発生し下位スタートになったり、決勝ではリタイアするまでではないものの(ロズベルグにも)パワーユニットに問題が発生するなど信頼性に悩まされることが増えている。ロシアGPの後には陰謀説まで浮上し、チームが公式サイトで陰謀説を否定する事態にまで陥っている。第5戦スペインGPではハミルトンがポールポジションを獲得したが、決勝ではオープニングラップでメルセデス同士で同士討ちを喫し、2011年オーストラリアGP以来のダブルリタイアを喫した。さらにカナダGPのオープニングラップで2人がかすかに接触しロズベルグが順位を落としたり、オーストリアGPでは首位を争っていた2人がファイナルラップに接触しハミルトンが優勝したもののロズベルグは4位に終わった。最悪の場合、ダブルリタイアも考えられた事態だったこともありレース後にはチーム代表のトト・ヴォルフが「チームオーダーを発動させる可能性がある」と警告するなど2014年以上に関係が緊張した状態となりつつある。ハミルトンはイギリスGP、ハンガリーGPでも勝ち3連勝し、ドライバーズポイントでロズベルグを抜きトップに立った。ハンガリーGPを前にロズベルグは2018年まで契約を延長している。後半戦からはロズベルグが勢いを取り戻し、第13戦ベルギーGPから第15戦シンガポールGPまで3連勝でハミルトンを再逆転、第16戦マレーシアGPではトップを独走していたハミルトンがエンジンブローでリタイアし(ロズベルグは3位)、両者の差がさらに広がった。第17戦日本GPでロズベルグが優勝し、3年連続のコンストラクターズチャンピオンが決定した。1997年にはFIA GT選手権に投入すべくメルセデス・ベンツ・CLK-GTRを短期間のうちに開発、マクラーレン・F1の牙城を崩すことに成功し、同時に「ロードカー」をごく少数AMGが生産した。翌年のル・マン24時間レースにはメルセデス・ベンツ・CLK-LMを投入し(市販車は存在しない)ルマンでは二時間で全車リタイアの憂き目に遭うものの、その後のFIA-GT選手権では圧倒的な強さを見せ、ドライバーズタイトルとメーカーズタイトルの二冠を獲得している。カミオンがヨーロッパで開催されている「トラックレース」に参戦している他、パリ・ダカールラリーなどのラリーレイド競技において競技車輌やサポートカミオンとして使用されている。特にサポートカミオンとしてはイヴェコ、MAN、ボルボと共に、多数のチームが使用している。
出典:wikipedia
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