越ヶ谷宿(こしがやじゅく)は、江戸時代に整備された奥州街道および日光街道の宿場町の一つである。越ヶ谷宿は、江戸・日本橋から数えて3番面の日光街道および奥州街道の宿駅(宿場町)であり、江戸(日本橋)からの距離は6里8町であった。元荒川右岸の越ヶ谷(武蔵国)と左岸の大沢(下総国)の二つの町を合わせた範囲の宿場町であり、その規模は千住宿に次ぐ規模となった。越ヶ谷側は武蔵国の久伊豆神社があり、大沢側には下総国の一の宮香取神社が鎮座していた。久伊豆神社は、治水工事により元荒川の流路が変更されたため、久伊豆神社は元荒川の越ヶ谷宿の対岸となっている。元荒川以南の地域は、古来より武蔵国埼玉郡に属する。鎌倉時代には、長久・寛徳年間(1040~1045年)に、越ヶ谷太郎や小相模次郎が定住し、野与党の氏神久伊豆神社が建てられたと伝えられる。久伊豆神社は 、中世武士団・武蔵七党のうち野与党・私市党の崇敬を受け、後に越ヶ谷の領主的土豪会田家の氏神となる元荒川以北の地域は、下総国葛飾郡下河辺荘のうち新方庄に属した(戦国時代まで)。南北朝時代までは藤原秀郷の子孫である下野国小山氏の一門、下河辺氏によって開発された八条院領の寄進系荘園であった。戦国時代になると、越ヶ谷側は武蔵国埼玉郡、大沢側は下総国葛飾郡下河辺荘(新方庄)となり、元荒川は国境であった。そのため、越ヶ谷側は武蔵国の久伊豆神社があり、大沢側には下総国の一の宮香取神社が鎮座していた。また、既に鎌倉時代頃には六斎市の立つ町として栄えていた記述があり、猿島街道、赤山街道が東西南北に貫通する交通の要衝でもあった。このように、越ヶ谷宿は、中世末期から、政治的、経済的、信仰的に中心集落として賑わっていたことから、慶長七年(1584年)頃から奥州往還宿指定へとつながっていった慶長7年(1602年)に奥州街道・日光街道が整備され始め、元和3年(1617年)日光東照社建立以降領主通行の増大に伴い、道路や宿駅・助郷の整備が進められた。寛永2年(1625年)に三宮・大道・大竹・恩間が岩槻藩領になり、寛文2年(1662年)以降、見田方・南百・千疋・四条・麦塚・柿ノ木が東方忍藩領になる。あとの地域はいわゆる「天領」であり、関東郡代の支配地域であった。越ヶ谷宿は、江戸幕府の成立後すぐに奥州街道の宿場に取立てられ、正式な宿場となった。元荒川の対岸である大沢村も町場化し、越ヶ谷の伝馬上の助郷村として大沢宿が成立しており、慶安3年(1650年)には越ヶ谷宿・大沢宿に地子免許が与えられていた。貞享3年(1683年)、また一説によれば寛永年間(1622年-1643年)に太日川より西の地域を武蔵国に編入したのに伴い、元荒川より北の大沢も武蔵国に編入された。越ヶ谷宿の開発は、寛永12年(1635年)の参勤交代制の制定、寛永13年(1636年)の日光東照宮造営の竣工、日光社参の制度化に伴い、承応3年(1654年)越ヶ谷宿は、助郷村であった大沢村の両町の宿場機能の両者により完成したという。江戸時代初期、慶安3年(1650年)に越ヶ谷・大沢宿などに地子免許を与えた。元禄9年(1696年)には、越ヶ谷と大沢の規模は、伝馬制に伴い、越ケ谷、大沢両町に各5,000坪の地子免がなされ、越ヶ谷9町20間、大沢9町27間とほぼ均等の町場が形成されたという。。越ヶ谷御殿は、慶長9年(1604年)に徳川家康によって設けられたが、明暦の大火により江戸城が焼失しに伴い解体され、明暦3年に廃止された。その跡地は越谷市御殿町である。越ヶ谷御殿は現在の越谷市増林にあった御茶屋御殿を現在の越谷市御殿町に移築され「越ヶ谷御殿」と称した。この辺りは元荒川沿い低湿地地帯で、野鳥が多く、徳川家康や徳川秀忠も御殿に休泊し、民情視察を兼ねて鷹狩りを重ねていた。『徳川実記』によると慶安2年(1649年)徳川家綱の時、日光社参の際休泊に利用された。しかし、明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)の明暦の大火により江戸城が焼失したために、この御殿を解体し、江戸城の再建に利用され江戸城二の丸に移された。一帯は一部を除き畑地として開発されたが「御殿」の名はその地名として残り、住居表示施行の際に「御殿町」として正式な地名となっている。越ヶ谷宿の行政単位は、越ヶ谷町が本町、中町、新町に、大沢町が上宿、中宿、新宿に分けられていた。元禄9年(1696年)、越ヶ谷、大沢両町に各5,000坪宛の地子の免許がなされた。地子割当は、越ヶ谷町が、伝馬役百姓120軒、歩行役百姓21軒で、大沢町が、伝馬役百姓73軒、歩行役百姓 5 軒であった 。越ヶ谷と大沢の総戸数の記録があり、寛延3年(1750年)の記録によると、大沢町が総戸数は383軒である。百姓63軒、地借30軒、店借262軒であった『日光道中宿村大概帳』に拠ると、越ヶ谷町は総戸数542軒である。百姓125軒、地借、店借412軒であった当初、越ヶ谷町の会田一族には、本陣、問屋役持回りなど宿場の要職に集中していた。ところが、安永2年(1773年)越ヶ谷町と大沢町両町惣百姓大評定のうえ伝馬業務両町合体を決めた。また、越ヶ谷宿の宿駅機構の改革とその伝統的権威の多くの失墜のため、安永3年(1774年)に、越ヶ谷宿の本陣は越ヶ谷町の会田八右衛門から、大沢町の福井家へ移った。そのため、越ヶ谷町は商店の集中が見られる地域、大沢町が旅籠機能の集中が見られる地域という特徴的を持った町場造っていった『日光道中宿村大概帳』によると、天保14年(1843年)『越ヶ谷宿には本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠52軒が設けられていた。宿内の家数は1,005軒、人口は4,603人であった。越ヶ谷宿の旅籠数は、本陣・脇本陣を含めて57軒(天保年間)あった。その内飯盛り旅籠は、境板橋の右手一帯(越ヶ谷)に23軒を集中し、千住宿を除いた日光街道に於いて最大の花街を形成したという藤助河岸は、蒲生村(越谷市)にあった河岸場であった。藤助河岸は、綾瀬川河岸とも蒲生河岸とも呼ばれていた。藤助河岸場は綾瀬川の左岸、出羽堀の合流地に置かれていた。「藤助河岸」の名称の由来は「河岸問屋高橋家の当主名が藤助であったため」といわれている。近隣の村から運ばれた年貢米の津出し(出荷)されていた。この河岸場が栄えた時期は天和・元禄時代であった。『武蔵国郡村誌』によると、「河岸場の所有舟は、「似艜船10 艘、川下小舟19艘、伝馬造茶船10艘」との記述がある。江戸時代以後、明治・大正期にも大量の出荷や取引が行われていたが、「大正9年に東武鉄道に越谷駅が設立されると、次第に鉄道輸送に取って代わられ、昭和初期には廃業した」という。越ヶ谷宿は、都市的で濃密な集住であるために大火の危険にさらされた。寛政6年(1794年)1月では、越ヶ谷町167軒焼失した。また、文化13年(1797年)3月では大沢町大火・本陣ほか197軒焼失等多数の大火が起こっている。安政大地震は、安政2年10月2日(1855年11月11日)に、東京湾北部を震源とした直下地震があり、古文書から越谷村では震度は5程度とされる。この地震による越谷村で被害は、「江戸に近い越谷市越ヶ谷(越谷村)では「卯十一 月十二日快晴夜四ッ時近来稀成大地震、前蔵大瑕 (きず)二三ヶ所鉢巻平は少々出、頭蔵は四方鉢巻 平壁弐尺通り落、家根瓦難無、物置ひさし落」(『越谷市史』)があり、また、「私共村ゝ之儀 当月 二日夜地震ニ而 家毎ニ軒壁等震崩し 其外建具類 共殊之外破損多く 此上御鷹野御用ニ而御泊り等被 仰付候茂当分之内者差支勝与奉存候間此段御届可 申上候」(『埼玉県立図書館所蔵文書』)と、大間野村、越谷村、七左衛門村の名主から代官所へ報告されている。これらの文書から、越谷村では安政大地震による被害は大きくなかったとされている。
出典:wikipedia
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