731部隊(ななさんいちぶたい)は、第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ。正式名称は関東軍防疫給水部本部で、731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である満州第七三一部隊の略。満州に拠点をおいて、防疫給水の名のとおり兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった。そのために人体実験や、生物兵器の実戦的使用を行っていたとされている。1932年(昭和7年)8月に陸軍軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室(別名「三研」)が開設された。それと同時に、日本の勢力下にあった満州への研究施設の設置も着手された。そして、出先機関として関東軍防疫班が組織され、翌1933年(昭和8年)秋からハルビン東南70kmの背陰河において研究が開始された。この頃の関東軍防疫班は、石井四郎の変名である「東郷ハジメ」に由来して「東郷部隊」と通称されていた。1936年(昭和11年)4月23日、当時の関東軍参謀長 板垣征四郎によって「在満兵備充実に対する意見」における「第二十三、関東軍防疫部の新設増強」で関東軍防疫部の新設が提案され、同年8月には、軍令陸甲第7号により正式発足した。関東軍防疫部は通称「加茂部隊」とも呼ばれており、これは石井四郎の出身地である千葉県山武郡芝山町加茂部落の出身者が多数いたことに由来する。この際同時に関東軍軍馬防疫廠(後に通称号:満州第100部隊)も編成されている。1936年12月時点での関東軍防疫部の所属人員は、軍人65人(うち将校36人)と軍属105人であった。部隊規模の拡張に応じるため、平房(ハルビン南方24km)に新施設が着工され、1940年に完成した。1940年(昭和15年)7月、軍令陸甲第14号により、関東軍防疫部は「関東軍防疫給水部(通称号:満州第659部隊)」に改編された。そのうちの本部が「関東軍防衛給水部本部(通称号:満州第731部隊)」である。731部隊を含む関東軍防疫給水部全体での所属人員は、1940年7月の改編時で軍人1235人(うち将校264人)と軍属2005人に増加し、東京大学に匹敵する年間200万円(1942年度)の研究費が与えられていた。厚生労働省の集計によれば、1945年(昭和20年)の終戦直前における所属人員は3560人(軍人1344人、軍属2208人、不明8人)だった。この間、1942年8月から1945年3月には関東軍防疫給水部長が石井四郎から北野政次軍医少将に代わっていたが、引き続き731部隊などは石井の影響下にあったと見られている。1945年(昭和20年)8月、ソ連対日参戦により、731部隊など関東軍防疫給水部諸部隊は速やかに日本本土方面への撤退が図られた。大本営参謀だった朝枝繁春によると、朝枝は8月10日に満州に派遣され、石井四郎らに速やかな生物兵器研究の証拠隠滅を指示したと言う。この指示により施設は破壊され、部隊関係者の多くは8月15日までに撤収したが、一部は侵攻してきたソ連軍の捕虜となり、ハバロフスク裁判で戦争犯罪人として訴追された。1939年(昭和14年)に発生したノモンハン事件では、関東軍防疫部が出動部隊の給水支援を行っている。石井四郎が開発した石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功章が贈られた。一方で、ノモンハン事件での給水活動に対する表彰は、実際には細菌兵器使用を行ったことに対するものであったとの見方もある。第一次世界大戦での化学兵器使用をうけ、1925年のジュネーヴ議定書では化学兵器や生物兵器の使用が禁止された。しかし、日本は批准していなかった(1970年批准)。常石敬一や秦郁彦によれば、731部隊は、単に生物兵器の研究を行っていただけではなく、これを実戦で使用していた。731部隊ではペストやチフスなどの各種の病原体の研究・培養、ノミなど攻撃目標を感染させるための媒介手段の研究が行われ、寧波、常徳、浙贛(ズイガン)などで実際にペスト菌が散布されたと常石は主張している。731部隊の傭人として3年間勤務した鶴田兼敏は、ノモンハンでの生物戦での実体験について次のように語っている。「8月下旬の夜、急に集められ、トラックに乗せられ真っ暗な道を現場のホルステイン河に向かった。別に血判などはつかなかった。トラックは3台で、2台にそれぞれ兵隊が10人ほど乗り、残りの1台に細菌の培養液を入れたガソリン缶を積んだ。」さらに、中身を河に流す際、鶴田の内務班の班長だった軍曹が培養液を頭から浴び、腸チフスで死亡している。1947年に米軍の細菌戦研究機関フォート・デトリック()のノーバート・フェル博士らが行った731部隊関係者からの事情聴取によると、日中戦争において、浙贛作戦(1942年)などで12回の生物兵器の使用があったとする。また、ペスト菌汚染された蚤を空中散布した、チフス菌を井戸や畑の果物などに撒いた、細菌入りの饅頭を配ったなどとする証言者も複数存在する。部隊長石井四郎軍医は、フェル博士による尋問で炭疽菌の効果について次のように語っている。「炭疽菌についていえば、もっとも有効な菌であると確信しました。量産できるし、抵抗力があって猛毒を保持し、致死率は80%〜90%にのぼる。最も有効な伝染病はペスト、媒介節足動物による最も有効な病気は流行性脳炎であると考えました」。一方、田中淳雄少佐は尋問で、1943年に防疫研究の余暇を使ってペストノミの増殖の研究を命ぜられたものの、ペストノミの増殖に不可欠な白ネズミが不足していたことから、ペストノミの大量増殖は不可能であったと供述している。1940年の新京や農安でのペストの大流行が、731部隊の細菌散布により起きたとする元731部隊所属の金子順一軍医の「論文集(昭和19年)」が、2011年に日本の国立国会図書館関西部で発見された。論文では、1940年6月4日に日本軍が農安(吉林省)でノミ5グラムをまき、1次感染8人、2次感染607人の患者が発生し、同年10月27日には寧波で2キロ軍機から投下し、1次・2次感染合計1554人、41年11月4日には常徳に1.6キロ投下し、2810人を感染させ、6つケースの細菌戦では感染者は計2万5946人に上ったと報告している。また、投下した年月日はこれまで判明していたものと一致している。また金子論文は、太平洋や東南アジアでペスト菌を撒くことを想定し、地域や季節による効果を試算した研究内容を記述している。これらの計画は初歩的な検討段階で中止されたと見られるが、731部隊から抽出された実戦要員がマリアナ諸島に派遣されたとする秦郁彦の説もある。2012年6月15日衆議院外務委員会で社民党の服部良一議員は金子論文について質問すると、玄葉大臣は時間経過などを考えれば政府調査で事実関係が断定できるか難しく、今後の歴史学者の研究を踏まえていきたいと答弁した。1940年10月27日早朝に行われた寧波へのペスト菌攻撃は、低空飛行の飛行機から細菌をまく方法で行われた。この時使われたノミは、ペスト菌を持つネズミの血を吸い「ペストノミ」となったものだった。ノミだけではうまく目的地点に到達しない恐れがあり、また着地のショックを和らげる必要もあって、穀物や綿にまぶして投下した。11月3日までに37人が死亡し、華美病院の丁立成院長が、犠牲者の症状をペスト菌であると宣言している。1940年(昭和15年)11月に満州国の新京でペストが流行した際には、関東軍も疫病対策に協力することになり、石井防疫給水部長以下731部隊が中心となって活動し、流行状況の疫学調査や、感染拡大防止のための隔離やネズミ駆除を進めたとされる。しかし、この点についてシェルダン・ハリス()や解学詩は、ペスト流行自体が謀略や大規模人体実験、あるいは生物兵器の流出事故といった731部隊が起こしたものであったと主張している。常石敬一は新京や農安で発生したペスト流行については日本軍の細菌攻撃説には確かな証拠がなく、疫学調査のデータは自然流行のパターンに一致していることなどから、自然に発生した疫病だったのではないかと指摘している。しかし、ジャーナリストの渡辺延志は、2011年の金子論文発見によって、731部隊の細菌攻撃は新京から60キロの農安で始まり、農安から持ち込まれた犬が入院していた新京の日本人経営の犬猫病院を起点として、新京でのペスト流行が拡大していったもので、日本軍による細菌攻撃であったと主張する。1941年11月4日に常徳で行われた同様のペスト菌攻撃は、散布の効果が薄かった。これは、中国側が寧波での経験を生かし、日本機が菌を散布した後に衛生担当者がただちにまかれたものを収集し、破棄したからである。結果として中国側は死者数を一桁に抑えられた。一方で、同1941年に行われた浙贛への細菌攻撃では、1万人以上の被害が出た。コレラ患者を中心1700人以上が死亡したものの、犠牲者はすべて日本兵だった。被害にあった日本兵は上官から、これは中国による生物兵器攻撃だと教えられたという。両親と4人の弟、それに叔父までもペストに奪われ、家族の中でたった1人生き残ったという当時15歳の王栄良は、1942年9月に崇山村でのペスト菌攻撃の様子について、次のように語っている。もう一人の生存者、王達は、この生体解剖所について次のような手記を残している。石井四郎は医学研究において「内地でできないこと」があり、それを実行するために作ったのがハルビンの研究施設であった、と戦後に語っており、この「(日本)内地でできないこと」とは主に人体実験を指していると常石敬一は主張している。元陸軍軍医学校防疫研究室の責任者で、石井四郎の右腕といわれた内藤良一(のちの「ミドリ十字」の設立者)は、戦後のニール・スミス中尉による尋問で次のように証言している。「石井がハルビンに実験室を設けたのは捕虜が手に入るからだったのです。(中略)石井はハルビンで秘密裏に実験することを選んだのです。ハルビンでは何の妨害もなく捕虜を入手することが可能でした。」さらに、細菌部隊のアイデアは石井ひとりのものだったとし、「日本の細菌学者のほとんどは何らかの形で石井の研究に関わっていました。(中略)石井はほとんどの大学を動員して部隊の研究に協力させていた」と供述している。郡司陽子によれば、人体実験の被験者は主に捕虜やスパイ容疑者として拘束された朝鮮人、中国人、モンゴル人、アメリカ人、ソ連人等で、「マルタ(丸太)」の隠語で呼称され、その中には、一般市民、女性や子供が含まれていたという。ハル・ゴールドは、731部隊が性別、年齢層、人種を超えた、幅広い実験データを必要としたためであり、女性マルタは主に性病治療実験の材料になったという。マルタの人数は、終戦後にソ連が行ったハバロフスク裁判での川島清軍医少将(731部隊第4部長)の証言によると3,000人以上とされる。731部隊の「ロ号棟」で衛生伍長をしていた大川福松は2007年に「毎日2〜3体、生きた人を解剖し(中略)多い時は1日5体を解剖した」と証言している。犠牲者の人数についてはもっと少ないとする者もあり、解剖班に関わったとする胡桃沢正邦技手は多くても700 - 800人とし、別に年に100人程度で総数1000人未満という推定もある。終戦時には、生存していた40-50人の「マルタ」が証拠隠滅のために殺害されたという。こうした非人道的な人体実験が行われていたとする主たる根拠は、以下に示す元部隊員など関係者の証言である。また、石井四郎付き運転手であった越定男は、野外の安達細菌爆弾実験場で脱出を試みたマルタたち40人をトラックで轢き殺したと証言している。731部隊における人体実験は生体解剖を意味した。これは被験者が死亡してしまうと人体に雑菌が入るため、人体に雑菌が入らないうちに解剖して臓器などを取り出す必要があったからであるとする。元731部隊員で中国の撫順戦犯管理所に1956年まで拘留され帰国後は中国帰還者連絡会(中帰連)会員として活動してきた篠塚良雄は、当時14歳の少年隊員として「防疫給水部」に配属され、ペスト患者の生体解剖に関わったという。篠塚は帰国後、高柳美知子との共著において、中国人マルタの生体解剖の様子を次のように語っている。篠塚はペストに感染した友人の少年隊員であった平川三雄の生体解剖に立会った時の様子を、次のように語っている 。なお篠塚は、当時若かった自分の罪を悔やんでいるとして、2007年には中国のハルピンへ行き、遺族や被害者に謝罪をしている。田辺敏雄は、こういった中帰連関係者などの証言について、撫順戦犯管理所での「教育」によって「大日本帝国による侵略行為と自己の罪悪行為」を全面的に否定(自己批判)させられた者の証言であるとして、信憑性を疑問視している)。731部隊では、凍傷実験、ガス壊疽実験、銃弾実験などのように、人体を極限まで破壊すると、人体はどのくらいの期間持ちこたえることができるのか、あるいはそこからどのように治療すれば回復させることができるのか、といった生理学的な研究も頻繁に行われた。こういった実験は、731部隊以外の陸軍病院などでも行われた。731部隊の憲兵班の曹長であった倉員サトルは、ハバロフスク裁判において、凍傷実験を目撃した様子について次のように証言している。「生きた人間を使用する実験を私が初めて見たるは、1940年12月のことであります。第1部員である吉村研究員がこの実験を私に見せてくれました。(中略)私が監獄の実験室に立ち寄りました時、ここには長椅子に5人の中国人の被実験者が座っていましたが、これらの中国人の中2人には、指が全く欠け、彼らの手は黒くなっていました。三人の手には骨が見えていました。」731部隊の「ロ号棟」で衛生伍長をしていた大川福松は2007年4月8日、大阪市で開かれた国際シンポジウム「戦争と医の倫理」に出席し、子持ちの慰安婦を解剖した時のことを次のように回想している。「子どもが泣いている前で母親が死んでいった。子どもはどうするのかと思っていると、凍傷(の実験台になった)。それをざんごうに放り込んで埋める。本当に悲惨なことがたくさんあった。」さらに、同じく731部隊の印刷部員だった上園直二は、「2人の白系ロシア人の男性が零下40度から50度の冷凍室の中に素裸で入れられていました。研究者たちが彼らが死んでいく過程をフィルムに撮影していました。彼らはもがき苦しんでお互いの体に爪をめり込ませていました。」という証言をしている。石井部隊長の私設秘書的存在として活動していた、731部隊の郡司陽子は、同じく731部隊の隊員であった弟の友人から次のような証言を聞き出している。「ときには、マルタが3、4人ずつで中庭の散歩を許された。この時は、手錠だけで足枷は外されたようだ。自分が見た中で忘れられないのは、この中庭の周りを、土のうを背中にくくりつけられたマルタが、食事も睡眠も与えられないで、走らされている光景だ。何日生きておれるか、という実験をしているとのことだった。」1935年から1936年にかけて背陰河の東郷部隊に傭人として勤めた栗原義雄は、水だけを飲ませる耐久実験について、「自分は、軍属の菅原敏さんの下で水だけで何日生きられるかという実験をやらされた。その実験では、普通の水だと45日、蒸留水だと33日生きました。蒸留水を飲まされ続けた人は死が近くなると『大人、味のある水を飲ませてくれ』と訴えました。45日間生きた人は左光亜(サコウア)という名前の医者でした。彼は本当にインテリで、匪賊ではなかったですね。」と語っている。常石によれば、マルタを使用した安達実験場での爆弾実験は、新型爆弾の開発が追い込みにかかる1943年末以降に活発化した。731部隊の女性隊員郡司陽子は、同じく731部隊の隊員であった弟から、安達実験場での細菌爆弾の効果測定にマルタが使用されていたことを示す次のような証言を聞き出している。731部隊では、性病実験も頻繁に行われた。戦時中の性病治療法は極めて限られており、主な方法は注射しかなかったが、性病の蔓延は陸軍内部で深刻なほど拡大していた。例えばシベリアでは多くの日本兵が現地のロシア人女性を強姦したために性病が蔓延し、1個師団相当の兵力が失われたとされ、軍紀が乱れる大きな原因となった。司令部は、731部隊がこの問題を解決するよう期待したのである。当初、731部隊では注射で女性マルタに梅毒を感染させていたが、現実に即した実験結果が得られなかったため、マルタを強制して性行為を行わせることで梅毒を感染させ、梅毒にかかった男女を小部屋に入れて再び性行為を強制した。性病に感染すると、その経過を丹念に観察して、1週間後、3週間後、1ヶ月後における病気の進行状態を確認した。研究者は性器の状態など外部的兆候を観察するだけでなく、生体実験を行って様々な内部器官の病気がどの段階に達しているかを検査した。また、731部隊の研究員だった吉村寿人(のちの京都府立医大学長)が戦後に発表した論文には、乳児を氷水の中に漬けた際の温度変化が記録されていることから、実験中のレイプにより生まれた乳幼児、あるいは731部隊に捕えられる前から妊娠中だった女性マルタが出産した多くの乳幼児が凍傷実験に使用されたものとハル・ゴールドは考えている。元731部隊員の胡桃沢正邦は、生体解剖時の麻酔から目覚めた女性マルタの様子について次のように証言している。731部隊の施設建物が大量の爆薬によって破壊されたが、「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会(人骨の会)」代表常石敬一は、破壊は証拠隠滅であったとする。ウィリアムズとワラスは1989年の著書で、731部隊の実験データの多くは元隊員たちが密かに持ち帰り、最終的にはアメリカ軍の戦後の生物兵器開発に生かされ、人体実験に手を染めた軍医たちは連合国から戦犯として裁かれることなく、大学医学部や国立研究所や各地の病院に職を得たとしている。ただし、ハバロフスク裁判では裁かれている。ハル・ゴールドによれば、石井四郎は特別列車での日本への帰路において、16日夜に731部隊員と家族に対し、「日本は負けた。お前たちは今から内地へ返す(中略)だが731の秘密をどこまでも守り通してもらいたい。もし軍事機密をもらした者がいれば、この石井はどこまでもしゃべった人間を追いかけていくぞ、いいな。」と貨車ごとに大声で演説したという。青木冨貴子によれば、終戦直後に特別列車で日本に帰った石井ら幹部は、実験資料を金沢市に保管、千葉の石井の実家にも分散して隠し持っていた。石井は連合国軍による戦犯追及を恐れ、病死を装い、千葉で偽の葬式まで行い行方をくらました。青木冨貴子によれば、ジャーナリストの野口修司がソ連が石井への尋問を行った際に立ち会った通訳の吉橋太郎から聞き出した内容によれば、石井は「細菌戦エキスパートとしてアメリカに雇っていただきたい。ソ連との戦争準備のために、私の20年にわたる研究と実験の成果をアメリカに提供できるのです。」と語ったという。結果として、その後のソ連の石井たちへの尋問は失敗に終わり、戦犯から逃れようとする石井ら731部隊幹部と、ソ連にいかなる情報も与えまいとするアメリカ側の利害関係は見事に一致すると、青木冨貴子は述べている。青木冨貴子によれば、米国が731部隊員に提示した条件は、以下の9項目からなっていた。さらにフェル博士が発見し、石川太刀雄丸が解説をつけた病理標本8000枚が、アメリカ陸軍のメリーランド州フレデリックのキャンプ・デトリックに送られた。アメリカ政府は次のように結論した。さらに、アメリカのエドウィン・V・ヒル博士(化学戦部隊基礎科学部主任)は最終報告書において、「今回の調査で集められた事実はこの分野におけるこれまでの見通しを大いに補いまた補強するものである。このデータは日本人科学者たちが巨額の費用と長い年月をかけて得たものである。情報は、人間について各病原体毎の感染に必要な各細菌の量に関するものである。こうした情報は人体実験に対するためらいがあり、われわれの研究室で得ることはできない。これらデータを入手するのに今日まで要した費用は総額25万円である。この費用はこれらの研究の価値と比べれば些細な額にすぎない。」と記している。朝鮮戦争でアメリカは日本軍の731部隊のデータをもとに細菌戦を実施し、また石井四郎も従軍したといわれる。一方、キャサリン・ウエザースビーは、米軍が朝鮮戦争で細菌戦を行ったというのは、北朝鮮、ソ連、中国による捏造でありプロパガンダであるとした。第二次世界大戦後にソ連が行ったハバロフスク裁判では731部隊関係者に訴追が行われ、判決で強制労働が命じられた。731部隊の実験データに強い関心を示していたソ連は、ハバロフスク裁判で731部隊の第4部細菌製造部第1班班長であった柄沢十三夫少佐を厳しく尋問し、柄沢は1946年9月26日から30日までの間に、731部隊の編成と責任者、研究内容、設備、人体実験の事実、中華民国での細菌兵器使用、寧波と常徳で行われたペストノミ攻撃の事実を認め、総指揮者が石井四郎であったと証言した。柄沢十三夫は、ハバロフスク裁判の判決準備書面で「昭和18年末あるいは19年の初めに安達付近演習場にて人体および動物に関する実験が行われたり」と述べている。この時は炭疽菌爆弾の実験が行われ、犠牲となったのは10〜20人であり、その他に馬20頭についても実験が行われたという。炭疽菌爆弾の場合、マルタは榴流弾の弾子で負傷し、血だらけとなる。マルタは担架で部隊に運ばれ、どのような傷であれば感染が起こるか、何日間で発病するか、そしてどのように死んでいくかが観察された。多くの場合、全員が感染し、数週間以内に死亡している。最後には内臓のどの部分が最もダメージを受けたかを明らかにするために、解剖された。また、柄沢の上司だった川島清軍医少将(731部隊第4部長)も、飛行機によるペストノミの散布、ペストノミの入った陶磁器製爆弾の投下、天皇の命令書、部隊の資金と出資、マルタの供給と受領の仕組みなどについて供述した。また川島は、実験の犠牲者は3,000人以上とされる。ハバロフスク裁判で731部隊少年隊の篠塚良雄は、チフス菌、コレラ菌などの培養液をドラム缶で運んで川に流したときの様子を次のように証言している。「私は(中略)1939年7月初旬より同年8月下旬に到る間(中略)旧関東軍防疫給水部本部の臨時編成に依る該隊培地班班長少佐早川清を総指揮とするノモンハン事件の細菌謀略に使用したチフス菌、コレラ菌、パラチフス菌の細菌大量生産隊に少年隊員傭人として加わり小林隊に属し無菌室において技師Kの直接指揮の下に2名の者と共に1組となり1日に約30缶の培養缶に細菌を植付しました。この間に私は約1キログラムの細菌を掻き取りました。細菌大量生産に依り生産した細菌は生産参加人員が逐次出張命令に依り将軍廟、ハイラル等に運搬しノモンハン事件の細菌謀略に使用しました。」1997年に中華人民共和国の180名が、ハーグ陸戦条約3条違反などにもとづき細菌戦の被害者への謝罪と賠償を日本政府に求める裁判を日本で起こした(731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟)。2002年、東京地方裁判所は、ハーグ陸戦条約が個人に国際法主体性を認めておらず、また日中平和友好条約で日中共同声明の「戦争賠償の請求放棄」原則が確認されて国際法上は国家責任は決着した、補償法令の立法不作為も認められないなどとして請求を棄却した。他方、東京地方裁判所は細菌戦の事実関係について、当該訴訟では原告側の立証活動だけで被告側による反証活動がされていないという制約があり、複雑な歴史的事実であるから歴史の審判に耐え得る事実の認定は学問的な考察と議論に待つほかはないとしたうえで、当該裁判所の事実認定としては731部隊や中支那防疫給水部(1644部隊)が1940年から1942年にかけてペスト感染したノミを散布したり、コレラ菌を井戸に入れるなど細菌兵器の実戦使用(細菌戦)があったと判断した。同事件は、2007年に最高裁判所で原告側の敗訴が確定した。1989年に7月東京都新宿区戸山の旧陸軍軍医学校跡地に建設予定の国立感染症研究所建設現場で、四肢が様々な位置で切断された形跡が残った大量の人骨が発見された。人骨の身元は不明だが、731部隊の犠牲者の可能性があるとして市民団体は政府調査を要求した。1992年4月、札幌学院大学教授の佐倉朔の鑑定結果は次のようなものであった。以上の理由から「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会(人骨の会)」代表常石敬一は、凍傷や壊死など、四肢の切断を必要とする手術の練習台に、これらの人骨が使用されたのではないかと指摘している。また、新宿区が遺骨焼却予算を計上したため、焼却差止住民訴訟が起こされたが、2000年に敗訴確定(人骨焼却差止住民訴訟事件)。2001年の厚労省調査報告では、陸軍軍医学校関係者368人への聞き取り調査によって、標本類また医学教育用に集められたもので、戦死者等から作成された可能性はあるが、731部隊によるものを否定する回答もあり、確定できなかった。2011年、厚労省が初の発掘調査を行った。2016年、人骨の会代表常石敬一らはミトコンドリアDNAの鑑定などを厚労省に要望した。近年になって機密指定解除された731部隊関係のアメリカ政府や軍の公文書からも、非人道的な実験が行われた記録はいまだ発見されていない。その理由として、米陸軍戦史センターの元主任研究員エドワード・ドリューは、「終戦直前の1945年8月12日からアメリカ軍の一部が日本に上陸する8月28日までの間に、人体実験に関わる主要な記録の多くが日本当局により隠滅されたため」であると指摘している。また、コロンビア大学教授のキャロル・グラック(日本近代史専攻)は、アメリカの、日本軍の満州での初期の軍事行動に対する関心が終戦時と比べて低かったこと、そして連合軍がヨーロッパにおけるホロコーストの資料作成を優先したのに比べ、戦略諜報局(CIAの前身)が日本軍の満州での初期の軍事行動に対して徹底的な調査を行わなかったからであると指摘している。ただし、アメリカ、ユタ州のダグウェイ細菌戦実験場では、731部隊による人体実験の数百ページに及ぶ詳細なデータ「ダグウェイ文書」が発見されている。この「ダグウェイ文書」には、炭疽菌について400ページ余にわたり、30例の解剖所見の人体模型図入りの記録、さらに心臓、肺、扁桃、気管支、肝臓、胃というように18の臓器ごとの顕微鏡写真入りの記録が記載されている。また、ニューヨーク在住のノンフィクション作家である青木冨貴子によって石井四郎が終戦後に書いた手記が発見されており、それには戦後の石井の行動の克明な記録に加えて、戦時中の行動に関しても相当量が記載されていたが、その中には非人道的な活動を明示する内容は無かった。ほかに確認されている文献史料としては、「特移扱」と呼ばれるスパイ容疑者などの身柄取り扱いについての特例措置に関するものがあり、これが731部隊に移送されて人体実験対象にされたことを示す隠語ではないかと推定されている。1938年1月26日に関東軍の各憲兵隊に発出された命令文書「特移扱ニ関スル件通牒」(関憲警第58号)では、スパイ容疑者や思想犯、匪賊、アヘン中毒者などを通常の裁判手続きに乗せない「特移扱」とすることができるとの指示がなされている。実際に、ソ連のスパイ(ソ連の諜報員の略で「ソ諜」「蘇諜」等と表記)を「特移扱」とした指令書や報告書等も残存している。また、秦郁彦によれば、現存する731部隊の医学的成果を分析したところによると、「猿」を使った流行性出血熱(孫呉熱)の病原ウイルス特定と、凍傷治療法の2件は、人体実験を利用して得られたものではないかと推定されるという。原正義は、1928年の済南事件での日本人犠牲者の遺体の写真が、731部隊が中国人に細菌人体実験をしている写真として『日本侵華図片史料集』や吉林省博物館、粟屋憲太郎の論文などで誤用されたと主張している。
出典:wikipedia
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