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被爆電車

被爆電車(ひばくでんしゃ)とは、原子爆弾で被爆した電車の事である。狭義においては現在も営業運転している広島電鉄650形電車を指すことがあるが、ここでは1945年8月6日に行われた広島市への原子爆弾投下および8月9日に行われた長崎市への原子爆弾投下による電車への被害について記す。運行中の車両としては、広島電鉄の650形の651号車及び652号車が、平日の朝夕のラッシュ時に使われている。また、修学旅行等の平和学習にも用いられている。その他、車籍のある車両については、650形の653号車および150形の156号車が車籍を有している。653号車については江波車庫で保管。156号車は、1987年の復籍時に1週間ほど江波線で運用されたが、その後の運用はない。同じく原爆の被害を受けた長崎電気軌道には被爆電車は保存・運用されていない。また熊本電気鉄道のモハ71は被爆電車と呼ばれているが、実際には被爆はしていない。その事については後述する。当時の全在籍車両123両の内、全焼22両、半焼3両、大破23両、中破24両、小破36両、無被災15両だった。形式別詳細は以下を確認の事。被災後、当時旧式化していた100形については一部の車両は450形に改造されたが、その後1953年までに工作車になった車両以外は全車廃車になった。300形についても、特殊な機構が災いして終戦後に全車廃車になっている。150形、200形、400形、450形などの近代的な車体を有していた単車については、大阪市電や神戸市電等からボギー車が移籍してきた事による車体の大型化により、1965年から1971年にかけて廃車されていった。600形については、650形の様な低床改造を受けなかった事で、1972年までに廃車になっている。500形については、終戦後に車体更新を受け700形に生まれ変わった。その後、ワンマン改造を受けたが、低床改造を受けなかった事で京都市電1900型に置き換える形で、1980年までに廃車になった。650形のみが、低床化改造、ワンマン改造、冷房改造などを受け、現在でも稼動している。もともとは、広浜鉄道の車両で、路線とともに1936年に国に買収されたものである。8月6日、山口県の幡生工機部に入場していたモハ90001、90005を除き、横川駅構内で全車が被爆した。被害程度の小さかったモハ90003が復旧されたが、他は1946年11月付けで廃車になっている(なお、モハ90006、90007は、モハニ92形(92001, 92002)の改造車)。なお、モハ90005、90003、90001は1953年に廃車になった後、熊本県の熊本電気鉄道に譲渡され、それぞれモハ71 - 73になった。このうちモハ71は、工場の機械扱いではあるが現存する。モハ71は、しばしば被爆電車と呼ばれるが、先述の通り広島に原爆が投下された時には山口県にある幡生工機部に入場していたので、実際に被爆したわけではない。可部線は沿線に軍需工場が進出したことにより旅客が増大。このため、1941年頃より順次、木造省電(モハ1形、クハ6形)が転属してきた。在来車に合わせ集電装置をパンタグラフからポールに変更していたのが特徴である。1945年8月9日時点で7両が在籍していたが、このうちモハ1052、モハ1042、クハ6006の3両が横川駅構内で被爆・大破し、廃車になっている。当時の全在籍車両56両の内16両が焼失、当時在籍していた車両殆どに被害があった。戦災復旧車は1960年代まで使用されたが、西鉄福岡市内線から譲り受けた160形や自社発注の360形・370形・500形が増備されたため1967年までにすべて廃車となった。最後の被爆電車は創業車である1形1号の車体を改造した電動貨車101号で、最後の単車として1972年までその姿を残していたが、広島のように被爆電車に対する歴史的意義が注目されることもなく解体されてしまい、現在保存されている被爆電車は皆無である。原爆投下時に単車ばかりで近代的なボギー車が存在しなかった事(1943年に計画されたが、不認可になった)、路面電車の廃止が相次ぎ、経営体質改善のために単車からボギー車に入れ替えたりしていた1965年頃に、長崎電気軌道のバス部門の経営不振問題があった事等も、被爆電車が残らなかった一因であると考えられる。

出典:wikipedia

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