湛如(たんにょ、享保元年6月28日(1716年8月15日) - 寛保元年6月8日(1741年7月20日))は、江戸時代中期の浄土真宗の僧、西本願寺16世宗主。諱は光啓。院号は信曉院。大僧正。寂如の10男として生まれる。兄弟の多くが早逝し、誕生時には既に寂如が養子に迎えた住如が新門跡に就いていたため、後に住如の養子となる。妻(裏方)は閑院宮直仁の長女始宮(治子女王)。前宗主の死去にともない24歳で継職したが、病気のためわずか3年で急逝。子は無かった。「裏方」(宗主の配偶者の役職)の治子も湛如の死後剃髪し出家。幼少時から病弱だったといわれ、宗主就任時には肺結核に侵されていたという。わずか26歳で急逝した死因は、従来「病死」とされていたが、近年の歴史研究によって自害(自殺)であったとの見方が提示されている。本願寺と親交の深かった茶道の薮内流に伝わる『薮内歴代調』には、"「湛如上人の御裏方様、時の権力者徳川家より御入ありたり。(中略)湛如上人誠に眉目秀麗にて、姫宮様の中心となられしも、そのうち如何なることありしや、遂に御無念のことありしか、御自害これありときく。寛保元年六月七日」"とある。自殺に至った一説には、湛如の病臥に際して、浄土真宗の神祇不拝の教義に反して裏方やその実家である閑院宮家が病気平癒のための祈祷をさせた。その行為をめぐって当時の能化である法霖は、宗主自らが祈祷で病気が平癒したとなれば神祇不拝を旨とする宗義に大変な混乱が生じると諭し、宗主自らが自害することを勧めたという。結果、湛如は当時の宗門安心の混乱を避けるため自ら命を絶つことを選んだ。また、法霖自身も湛如の死後、後継者問題などを処理したことを見届けて(半年後に)自害している。従来、本願寺では宗主の自害は恥であるとしてその死因については伏せられてきたとされるが、自害に至った意義をあらためて検証すべきであるとして、公にしようとする動きもある。
出典:wikipedia
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