モダン日本(もだんにっぽん)は、昭和初期の娯楽雑誌。1930年に菊池寛によって文藝春秋社から創刊され、1932年にモダン日本社として独立、戦時中は『新太陽』に改名、戦後は新太陽社から復刊するが、1950年に『別冊モダン日本』として再生、1951年に廃刊。昭和モダニズムを標榜する誌面で、戦後は吉行淳之介が編集者を務めた。それまで『文藝春秋』『オール讀物』を発行していた菊池寛が、1930年10月に創刊。創刊号巻頭で菊池は「現代日本」の生活、実際科学、娯楽、趣味を中心とした興味本位の雑誌という趣旨とした。誌名は当初「モダン・ライフ」が考えられており、創刊号には久米正雄「外出着のモダン・ライフ」も寄稿された。表紙絵は東郷青児、記事はエロ・グロ・ナンセンスが基調で、女性の恋愛に関する読み物や外国女優のグラビア、浜尾四郎による海外の猟奇事件を紹介する読み物、中村正常、辰野九紫、徳川夢声の読み物などが掲載、谷譲次、丸木砂土などの連載小説があった。また大学野球に力を入れた。創刊号が話題になったもののその後は伸び悩み、1931年に『オール讀物』などにいた馬海松が参加し、130ページで定価40銭だったのを9月号から80ページ定価10銭として誌面も刷新。続いて翌年2月号から発売元は文藝春秋社のまま、編集部を馬が社長となったモダン日本社として独立し、時勢、政治なども扱うようになる。川端康成の連載「浅草の九官鳥」「水上心中」、吉川英治「狐雨」、舟橋聖一「泡雪峠」、「牧野信一や大佛次郎などの随筆、コントを掲載。戦時中は『新太陽』に改名し、6万部を発行していた。戦争末期に馬が朝鮮に引き揚げたため、文藝春秋社員だった牧野英二が引き継ぎ、新太陽社から風俗小説誌として刊行、1947年には発行部数20万部となる。大佛次郎や田村泰次郎が活躍し、久生十蘭「だいこん」の連載が人気を博した。新太陽社は1947年に新雑誌『アンサーズ』を創刊、このとき出版協会から許可を得るための交渉役に採用された、当時東大生だった吉行淳之介がそのまま社員となり、『アンサーズ』が売れ行き不振となると『特集讀物』に改名して吉行は『モダン日本』に移る。また芥川賞・直木賞候補にもなった辻勝三郎も一時編集長を務め、後に芥川賞受賞した石川利光、詩人田中冬二なども役員として在籍、1948年からは澁澤龍彦がアルバイトとして入社した。吉行は、1947年に結成された独立漫画派の小島功、関根義人、赤川童太、やなせたかし、六浦光雄や、投稿してきた鈴木義司らの漫画も掲載し、挿絵画家として風間完、永田力も採用した。1949年になると経営は赤字になり、1950年4月号で打ち切られ、社長の牧野らは新たな出資者を得て小型判の『別冊モダン日本』として再刊する。編集者は吉行と津久井柾章(名和青朗・名和左膳)の二人だった。翌年まで13号を発行して黒字となるが、牧野が出資者と対立して廃刊となる。牧野ら三人は新しく三世社を起こして『講談讀切倶楽部』を創刊する。富永一朗も吉行に才能を見出された一人だが、富永によると、富永作品が掲載されたのは『モダン日本』ではなく『講談讀切倶楽部』だったという。この間吉行は同人誌に小説を書き、「原色の街」で1952年に芥川賞候補となり、津久井は新雑誌に書いた漫才台本をNHKに売り込んで放送作家に進む。
出典:wikipedia
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