スティグマ(ハンセン病)は、種々ののうちのハンセン病に関するスティグマ(leprosy stigma)に関して記載する。スティグマは、もともとはギリシアで奴隷・犯罪人・謀反人であることを示す焼き印・肉体上の「しるし」のことで、汚れた者・忌むべき者というマイナスイメージが肉体上に烙印されたものである。のちにカトリック教会では、十字架上で死んだキリストの五つの傷と同じものが聖人=カリスマにあらわれるということから、「聖痕」の意味に転化した。このような由来をもつため西欧では日常語として使われている。とくに学術用語としてはアーヴィング・ゴッフマン(Erving Goffman)が使った。彼によるとスティグマはスティグマを受ける個人をたいへん恥ずべき特性と考え、社会の同僚として受けるべき尊敬が否定され、その社会から受け入れない状態という。それには、(1)身体的変形、(2)精神異常、投獄、麻薬常用、アル中、同性愛、失業、自殺企画、過激な政治運動などから推測される性格の異常、(3)民族、国家、社会の階級、宗教などにの特性がある。日本では大谷藤郎の「現代のスティグマ、ハンセン病・精神病・エイズ・難病の艱難」で知られるようになったが、ハンセン病に関しては古くは鶴崎澄則が記載している。スティグマは多くの状態があり、社会学的にも一つの研究課題である。ここではハンセン病患者に関係するスティグマを記載する。英語でいえば、leprosy stigma, stigma of leprosy, stigma associated with leprosy, leprostigmaなどの単語があるが、ここではleprosy stigmaの記述が一般的である。ウイリアム・ジョップリングはleprosy stigmaという題で総説を書いたが、この言葉とは別の、この状態は昔からあり、彼はゴッフマンの上述の定義に基づき、ハンセン病患者はスティグマを受けている記述した。即ち、第一に顔面などの変形があることがスティグマを受ける理由とされる。ハンセン病患者がスティグマを受けた歴史はハンセン病の歴史上最古に遡る。ヨーロッパの中世では教会がらい患者を不潔とし、多くのらい病院を建てたが患者に鐘をもたせ、他の人にその存在を気付かせることを強要して、差別した。彼は戦前アフリカで医療に従事し、ハンセン病を経験したが、戦後、ロンドンに帰ってから熱帯病を大学院で学びなおした。第2次大戦後外国から流入した患者が多く英国政府が作った専門の病院の住み込み院長となり、同僚のリドレィと共にリドレィ・ジョップリングのハンセン病の分類を完成させたが、他にその病院での経験でのハンセン病の色々の面での経験が豊富である。英国の病院であり当時の患者は外国からの流入である。第1例は27歳のインド人でハンセン病のせいで、当然受けるべき治療を受けていなかった。第2例は60歳の男性で医師の無智により当然受けるべき治療を受けていなかった。その他差別を受け、自殺を図った例を記述している。宮崎松記は昭和27年9月発行の恵楓という雑誌の中で、「表記の言葉はニューヨーク科学院年報54巻のケーラーベルガー氏(アメリカ救らい協会)の論文から紹介し適当な訳がみあたらないのでそのまま「スチグマ」とする、とある。私どもは、らいのスチグマを認めるような結果を恥じなければならない、としている。日本におけるスティグマに関しては昔から多くの記述がある。米国でもスティグマがあった。しかし、それを打破しようとしてカーヴィル療養所にて、The Starという雑誌が発行され、患者自身の努力があったことは貴重なことである。The Starは1941年から2001年までの60年の間発行された。前のJoplingの原著にあるが、ハンセンは「ノルウェー国家はらい患者を人道的に取り扱った」と記載している。病院に入院していても日中は作品をマーケットに売りに行くことや、客人と会うことが可能であった。そこではスチグマが少なかった。ノルウェーから米国に流出した患者が多かったがそれはスチグマのためではなく貧乏から逃れるためであった。ハンセン病の知識が普及すること、ハンセン病の治療法により、ハンセン病が絶滅すること(特に多剤療法による)、ハンセン病の歴史を周知させることによる。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。