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ジョン・シピン

ジョン・シピン(John White Sipin、 1946年8月29日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ワトソンビル出身の元プロ野球選手(内野手)。6月8日、セントルイス・カージナルスからドラフト55巡目(全体785番目)で指名され契約。にAAA級タルサ・オイラーズに昇格した後、1969年5月22日、2対2のトレードでサンディエゴ・パドレスに移籍し、5月24日に2番・二塁手でメジャーデビュー。1回裏のメジャー初打席で三塁打、4回裏の2打席目でも三塁打を打つという鮮烈なデビューを飾った。その後1番を打つこともあったが打率が伸びず、結局メジャー出場はこの1シーズンだけに終わった。はAAA級ソルトレイク・ビーズ、はAAA級ハワイ・アイランダーズに所属した。に大洋に入団し、常に3割を狙える安定した打撃を売りにクリーンナップの一角として活躍。二塁手として1972年・にダイヤモンドグラブ賞を受賞。1970年代のプロ野球を代表する二塁手となった。その長髪といかつい髭から、当時の特撮番組「快傑ライオン丸」にちなんで「ライオン丸」の愛称で親しまれ、球団が川崎を去るまで在籍。に金銭トレードで巨人に移籍。移籍の際にトレードマークとなっていた長髪と髭をばっさり切った。入団1年目は二塁手に土井正三がいたため、右翼手との掛け持ちだった。巨人の第42代4番打者にもなっている。契約はまで残っていたが、腰痛(これが原因で守備力が落ち、大洋からの放出につながった)に加えて若手育成のチーム方針から、1000万円の功労金を受け取りシーズン途中で円満退団した。引退後は10年ほど悠々自適の暮らしを送っていたが、不動産業のライセンスを取得し高級別荘地のセールスマンとなる。現在は自宅のあるカリフォルニア州サンタクララで、バッティングセンターを経営する。初めて日本に来たには、いつまで待っても来日せず、日本に来たのはキャンプ直前。その時の格好は長髪でヒッピーの様な服、釣り竿を持ってやってきたという。翌日キャンプに行き、代打として出場したが、結果はぶざまな三振。それを見た福島良一は呆気にとられたという。遊撃手であった米田慶三郎や山下大輔との二遊間は、当時リーグでも屈指の併殺率を誇った。特に送球の速さは抜きん出ており、一塁手の松原誠は、あまりにシピンの送球が速いため左手がしびれてしまい、捕球するのを嫌がったといわれている。ファッションに独特の哲学を持っていたようで、鬚に加え、サイケデリックな私服で球場入りしたり、ヘルメットを被って二塁の守備についたりと、「派手で奔放な野生児」というイメージが定着していた。しかし巨人に移籍してからは奇抜なファッションは鳴りをひそめた。また、巨人時代は試合中2度も死球に怒ってマウンドに突進して投手(大洋の門田富昭とヤクルトの鈴木康二朗)を殴って退場を告げられたことがある(大洋時代にも退場経験はあるが暴力がらみではなく、田中俊幸審判の判定に激怒してホームベースに砂をかけたことによる。なお、鈴木投手を殴った時はその直後大杉勝男に殴り返された)。大洋時代は監督命令でも無視するため厄介者扱いされていたがクリート・ボイヤーには逆らわず彼の命令には「イエス・サー」と答えていたという。しかしボイヤーが退団した翌年=には完全に厄介者扱いされこれが巨人移籍の原因になったという。大洋時代は長嶋茂雄のことを「ナギー」や「シギィ」と親しみを主とした愛称で呼んでいたが、巨人に移籍してからは長嶋監督のことを「ミスター・ナガシマ」と、距離をおいた尊敬の念を持って呼んでいた。大洋在籍時には巨人の小川邦和に独持のアンダースローで抑えられ、小川は"シピン殺し"と呼ばれた。漫画「がんばれ!!タブチくん!!」では、ヤスダから「さすがジャイアンツじゃのう。シビンを持って試合かあー。」と突っ込みを入れられたことがある。

出典:wikipedia

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