ザ・バリアント・ブラザーズ(The Valiant Brothers)は、1974年から1979年にかけて活躍したプロレスのタッグチームである。実際には血縁関係はないが、「兄弟」であることをギミックに、金髪のショーマン派ヒールのユニットとしてWWWF(現・WWE)などで活動した。※3者とも190cm・120kg級の大型ラフファイターであり、シングルプレイヤーとしても実績を残している。1973年11月、ジミー・バリアント(前名ビッグ・ジム・ベイレン)とジョニー・バリアント(前名ジョン・L・サリバン)によって結成される。ボビー・ヒーナンをマネージャーにインディアナポリスのWWAに登場し、1974年1月5日にブルーノ・サンマルチノ&ディック・ザ・ブルーザーからWWA世界タッグ王座を奪取。同月25日のリターンマッチで一時タイトルは空位となるが、2月7日にも再びサンマルチノ&ブルーザーを破り王座に返り咲いた。ニューヨークのWWWFではキャプテン・ルー・アルバーノがマネージャーを務め、1974年5月8日、ペンシルベニア州ハンブルグにてディーン・ホー&トニー・ガレアを破りWWWF世界タッグ王座を獲得。翌1975年5月13日、アレンタウンでドミニク・デヌーチ&ビクター・リベラに敗れるまで、ペドロ・モラレス、チーフ・ジェイ・ストロンボー、ゴリラ・モンスーン、ヘイスタック・カルホーンらによるチームを相手に、1年間に渡って王座を保持した。1976年には全日本プロレスに来日し、6月2日に久留米にてジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦。6月17日には草加にてグレート小鹿&大熊元司のアジア・タッグ王座にも挑戦している。その後はNWAの各テリトリーを転戦し、1976年8月6日にはジム・バーネット主宰のGCWでディーン・ホー&ケン・マンテルからジョージア・タッグ王座を、同年12月4日にはサンフランシスコにてロイヤル・カンガルーズからNWA世界タッグ王座をそれぞれ奪取。1978年1月にはエディ・グラハム主宰のCWFにて、フロリダ地区のUSタッグ王者チームに認定された。この間、1975年から1977年にかけてはAWAのテリトリーにも参戦しており、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーやグレッグ・ガニア&ジム・ブランゼルが保持していたAWA世界タッグ王座に再三挑戦。AWAの提携団体だった古巣のWWAでは1977年2月12日にムース・ショーラック&ポール・クリスティ、1978年7月22日にウイルバー・スナイダー&ドミニク・デヌーチを下し、WWA世界タッグ王座を通算4回に渡って獲得した。1978年末、肝炎を患ったジミーの代打として、WWAでの盟友ガイ・ミッチェルがジェリー・バリアントを名乗ってジョニーと新チームを結成。新生バリアント・ブラザーズとして再びWWFを襲撃し、1979年3月6日、ペンシルベニア州アレンタウンにてトニー・ガレア&ラリー・ズビスコからWWFタッグ王座を奪取する。後にジミーも復帰し、トリオのヒール・ユニットとしてボブ・バックランドやアンドレ・ザ・ジャイアントとの抗争アングルも組まれた。同年10月22日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてイワン・プトスキー&ティト・サンタナに敗れて王座から転落したのを機に、WWFを離れチームを解散。1980年2月にジョニーとジェリー(名義はラリー・バリアント)のコンビで全日本プロレスに来日し、2月26日に人吉にて極道コンビのアジア・タッグ王座に再挑戦したが、以降はバリアント・ブラザーズが再編されることはなかった。1996年11月16日にはオリジナル・メンバーであるジミーとジョニーのコンビでWWF殿堂に迎えられた(インダクターは当時のWWF世界タッグ王者チームであるブリティッシュ・ブルドッグとオーエン・ハート)。
出典:wikipedia
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