LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

ロサンゼルスの戦い

ロサンゼルスの戦い(ロサンゼルスのたたかい、英語:Battle of Los Angeles、もしくはThe Great Los Angeles Air Raid)は、第二次世界大戦中の1942年2月25日に、アメリカ合衆国カリフォルニア州のロサンゼルス市で行われたアメリカ陸軍による軍事作戦。前日に行われた日本海軍の潜水艦によるロサンゼルス近郊への砲撃に続いて、艦載機による空襲が行われたと誤認したアメリカ陸軍が対空砲火を中心とした「迎撃戦」を展開、その模様はラジオ中継されアメリカ西海岸のみならずアメリカ全土をパニック状態に陥れた。しかし実際に日本海軍がそうした空襲を行った記録はなく、騒動の真相は未だ闇の中にある。1941年12月に日本陸海軍によって行われたマレー作戦と、それに続く日本海軍の航空母艦搭載機による真珠湾攻撃以降、日本軍はアジアおよび太平洋戦線において、アメリカ軍やイギリス軍、オランダ軍やオーストラリア軍をはじめとする連合国軍に対して連戦連勝を続けていた。この様な状況下で日本海軍は、太平洋のアメリカ沿岸地域に展開していた潜水艦による通商破壊戦を実施し、アメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船、潜水艦などを10隻以上撃沈し、中にはカリフォルニア州沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、日中多くの市民が見ている目前で貨物船を撃沈する他、浮上して砲撃を行い撃沈するなど、開戦以来日本海軍の多数の潜水艦による攻撃行動がアメリカ及びカナダの太平洋岸地域で頻繁に行われていた。さらに日本海軍は、アメリカおよびカナダ、メキシコの太平洋岸を中心としたアメリカ本土攻撃を計画し、その一環として1942年2月23日午後7時(現地時間)に「伊号第一七潜水艦」(以下「伊17」とする)によりカリフォルニア州サンタバーバラ郡のエルウッド石油製油所(リッチフィールド油田施設)への砲撃作戦を行った。砲撃による被害は少なかったものの、これはアメリカにとっては1812年戦争以降初めて本土に受けた攻撃であり、以後日本軍に対する大きな警戒を呼び起こすことになった。これらの日本海軍艦艇による度重なるアメリカ本土への攻撃を受けて、当時のアメリカ政府上層部は、「日本海軍の空母を含む連合艦隊によるアメリカ本土空襲と、それに続くアメリカ本土への上陸計画が開戦直後から1942年の初頭にかけて行われる可能性が非常に高い」と分析していた。実際に開戦直後にフランクリン・ルーズベルト大統領は、日本陸軍の上陸部隊によるアメリカ本土への上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診したものの、それに対して陸軍上層部は「大規模な日本軍の上陸とその成功は避けられない」として、上陸に成功した日本陸軍をロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴ近辺で阻止することを検討していた(なお、実際に開戦後数週間の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸や空襲を伝える誤報が陸軍当局に度々報告されていた)。またサンフランシスコやロングビーチ、サンディエゴ等の、アメリカ西海岸沿岸の主要な港湾都市(その多くは海軍基地も置かれていた)においては、日本海軍機動部隊の襲来や陸軍部隊の上陸作戦の実行を恐れて、陸海軍の主導で潜水艦の侵入を阻止する防潜網や機雷の敷設を行った他、その他の都市でも爆撃を恐れて防空壕を作り、さらには防毒マスクの市民への配布や灯火管制、警察や市民による沿岸警備などを行っていた。同年12月4日には、その後日本海軍の潜水艦による砲撃が行われるサンタバーバラの近郊にあるサンタバーバラ空港が海兵隊の基地(w:Marine Corps Air Station Santa Barbara)として開港し、現在カリフォルニア大学サンタバーバラ校がある場所に海兵隊の宿舎が設置されるなど、軍備態勢の強化が行われた上に、アメリカ西海岸一帯においては、黄色人種である日本人と日系アメリカ人に対する人種差別を背景にした日系人の強制収容までが行われていた。そのような厳戒態勢下にあったにもかかわらず、2月24日に日本海軍艦艇によりサンタバーバラ近郊にある石油精製施設に対する砲撃が行われ、これに対してアメリカ軍が何も反撃をできなかっただけでなく、石油精製施設に被害を受けたことは、日本軍のアメリカ本土攻撃とそれに続く上陸作戦の実施を恐れるアメリカの軍民に衝撃を持って受け止められた。その後カリフォルニア州沿岸のモントレーからロサンゼルス、サンディエゴに至るまでの広い地域で灯火管制とラジオ放送の中止が行われた他、陸海軍と警察、沿岸警備隊ともに日本海軍艦艇によるアメリカ本土に対する再度の攻撃に対して警戒態勢を敷いていた。しかしその後、日本海軍艦艇の接近は確認されず、日本海軍艦艇や航空機によるアメリカ西海岸一帯への再攻撃の兆候が見られなかったことから、24日の午後10時22分には、アメリカ西海岸一帯に出されていた警戒態勢は解かれることとなった。しかし警戒解除のわずか3時間後の25日の午前1時44分に、ロサンゼルス市にある陸軍の防空レーダーが西方120マイルの地点に日本軍機と思われる飛行物体の飛来を感知した。この情報はただちに各方面に伝えられ、対空砲火の体制が整えられるとともに陸軍航空隊の迎撃機がスクランブル態勢に入った。その後飛来数は「25機」と報告され、さらに午前3時過ぎにサンタモニカ上空で日本軍機と思われる、時速約320キロで移動する赤く光る飛行物体が陸軍の兵士のみならず多くの市民からも目視されたため、陸軍第37沿岸砲兵旅団はこれを撃墜しようと対空射撃を開始した。ロサンゼルス市の沿岸部から内陸寄りのカルバーシティの間の上空をサーチライトで照らされながら飛来する飛行物体に対して、陸軍第37沿岸砲兵旅団は午前4時過ぎまでの間に約1430発の高射砲を発射したものの、飛行物体には命中しなかった。さらに陸軍航空隊のカーチスP-40戦闘機などが迎撃を行うべく離陸したものの飛行物体の迎撃に失敗してしまう。その後も飛行物体はサンタモニカとロングビーチを結ぶ太平洋沿岸地帯を約20分間にわたり飛行し、その後目視からもレーダーからも消えてしまった。ロサンゼルスというアメリカ有数の大都市圏への突然の「日本軍機の空襲」と、それに対する対空砲火の応酬はロサンゼルス市民に大きな混乱を招き、夜中にも拘らず即座にCBSなど全国ネットのラジオ局でこの光景が中継された。さらに、多くの市民によって「どこからともなく現れた小型の物体が空いっぱいをジグザグに飛び回って、突然姿を消した」、「正確な数は把握できなかったが、30機から40機の飛行物体が高速で飛び回り、交差したり追いかけっこをしたりしていた」などの詳細な目撃談も報告されたほか、サーチライトに照らされた飛行物体の写真も多数撮影された。また翌日の地元紙には「4機が撃墜された」と報じられ、ハリウッドの中心地への「日本軍機の墜落」を伝える通報すらあった。この様に、飛行物体が飛行する様を多くの軍民が観察したのみならず、飛行物体に対して陸軍が対空砲火による攻撃を行い、その一部始終を多くの市民やマスコミが観察し、さらには多数の飛行物体の写真が撮影されていた。しかし事件の起きた25日の午後には、日本軍機の空襲を受けて国民の士気が落ちることを危惧したフランクリン・ノックス海軍長官が、「日本海軍機と思われる飛行物体の飛来とその後の警報は誤報であり、これらによる攻撃も確認されていない」と発表した。これに対しヘンリー・スティムソン陸軍長官は26日に会見し「ロサンゼルス市上空で、1時間にわたって15機の航空機が9000フィートから18000フィートの高度を上昇と下降を繰り返していたことを確認している」と反論した上に、ジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長は、ルーズベルト大統領に向けた報告書内で、「15機に上る航空機の飛来が確認されたものの、空襲などの攻撃による被害がなかったことから、日本軍が(アメリカ西海岸地域の)対空砲の位置を暴くとともに、灯火管制を敷かせることで生産性を低めるために偵察機を飛ばしたと推測する」との自らの意見を述べるなど、陸海軍間で意見の対立が見られた。なお国防総省は、軍事機密であることを理由に、全米的に大騒動を巻き起こすこととなったこの事件の公式な書類の存在を第二次世界大戦終結後にも否定し続けたが、1950年代に入り施行された情報公開法により、1959年3月10日に初めて日の目を見ることとなった。情報公開法により公開された、ロサンゼルス上空の未確認飛行物体事件をルーズベルト大統領へ伝える1942年2月26日付の機密報告書(陸軍総司令部のマーシャル陸軍参謀総長より)。第二次世界大戦後明らかになった日本海軍の記録では、この日に日本海軍の潜水艦とその艦載機によるロサンゼルス市一帯への空襲は記録されておらず、また「15機が飛来」や「25機が飛来」と報告されていたものの、当時アメリカ西海岸沿岸に展開していた航空母艦はなく、さらに同地域で活動していた日本海軍の潜水艦は10隻程度で、その艦載機を全部足しても15機に足らなかった。また、「日本軍が飛ばした爆弾付き気球(風船爆弾)ではないか」という報道もなされたものの、当時まだ風船爆弾は実用化されていなかった。さらに、当日に陸軍第205防空部隊が気象観測気球をサンタモニカで上げていたことが判明したことや、その後も各戦線において日本軍に敗北を続けていた上に、日本軍によるアメリカ本土への再攻撃のみならず日本陸軍の本土上陸をも危惧される中で、陸海軍ともにこのような大きな被害がない事件の分析に人員を取られるだけの余裕がなくなっていたこともあり、最終的に「24日の日本海軍の潜水艦によるサンタバーバラ砲撃とその後の警戒態勢を受けて過敏になっていた陸軍部隊が、この気象観測気球を日本軍機と見間違え過剰対応した事がこの『戦い』の発端である」と半ば強引に結論付けられ、この事件は幕を閉じることとなった。しかし、陸軍のレーダー上でサンタモニカよりはるかに離れた地点から上昇と下降を繰り返しながら飛来する飛行物体が観察されたうえに、目視においても多数の兵士や民間人が赤く光る飛行物体を確認し、撮影もされている(上部の「ロサンゼルス・タイムス」紙面の写真以外にも撮影されている)ことからこの結論を疑問視し、マーシャル陸軍参謀総長による報告書のように日本軍機の飛来を主張する者や(この主張が主流を占めた)、「日本軍の脅威を強調するために、軍需関連企業の意を受けた保守派団体などが航空機を飛ばし故意に騒ぎを起こした」という説を唱えるものがいたほか、戦後には「未確認飛行物体(UFO)が飛来した」と主張する者さえいる。なお、事件が起きた1942年においては、アメリカにおいていわゆる「UFO」の概念は一般市民のみならず軍内部においても認識されていなかった(「地球外生命体の乗り物」という意味でUFOの語が広く用いられるようになったのは戦後の1947年以降のことである)上に、脅威と考えられることもなかったため、事件当時には「UFOの飛来ではないか」という意見は大戦後に至るまで軍民、マスコミのいずれからも起きることはなかった。いずれにしても、実際の被害の大きさよりも、アメリカ軍民に衝撃と混乱を与えることが目標とされた2月24日のサンタバーバラへの日本海軍艦艇による砲撃の成功、そしてそれに先立つアメリカ西海岸における通商破壊戦の成功が、このような形でのアメリカ陸海軍の混乱と、同士討ちによる被害を招いたともいえる。飛行物体からの攻撃行為はなかったものの、ロサンゼルス市内には陸軍が迎撃のために発射した対空砲火の破片が多数散乱し、破片により地上では住宅や自動車が被害を受けただけでなく、3人が破片にあたり死亡した。さらに突然の「日本軍機襲来」と対空砲火に驚いた市民3人が、心臓麻痺で死亡した。このように、日本軍による上陸や空襲を恐れたアメリカ軍が過敏な警戒体制を敷いていたこともあり、日本海軍機によるロサンゼルス市を含むカリフォルニア州内への空襲は行われなかったものの、1942年9月には日本海軍の巡潜乙型潜水艦「伊25」に搭載されている零式小型水上偵察機が、2度にわたり隣の州であるオレゴン州の森林地帯へ焼夷弾を投下する空襲を行い、山火事を発生させた。しかしアメリカ陸海軍はこれを阻止できなかったばかりか、迎撃すら満足に行うことができなかった、さらに上記のエルウッド石油製油所への砲撃以降、同年の6月20日には伊17と同じ乙型潜水艦の「伊26」が、カナダ、バンクーバー島太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を14センチ砲で砲撃した。この攻撃は周辺の無人の森林に数発の砲弾が着弾したのみで大きな被害を与えることはなかった。また翌21日に、オレゴン州アストリア市のフォート・スティーブンス陸軍基地へ伊25が行った砲撃でも、アメリカ陸軍は何の反撃も出来なかったが、砲撃の結果兵士にけが人が出るのみで大きな被害は与えられなかった。なおこの砲撃は、アメリカ本土にある同国軍基地への攻撃としては米英戦争以来のものとなった。日本海軍機は同月にはアラスカ州のダッチハーバーにあるアメリカ海軍基地に対する空襲も行い、こちらは基地施設が大破するなど大きな被害を出したものの、これらの日本海軍艦船および航空機による一連のアメリカ本土への攻撃作戦に対して、当時各地で日本軍に対し敗北に次ぐ敗北を重ね、艦船や航空機を喪失し弱体化していたアメリカ陸海軍は何ら効果的な反撃をすることができなかった。なおこれ以降アメリカ本土に対する日本海軍の攻撃は行われていない。日本陸軍は1944年11月より風船爆弾により大陸間爆撃を行い、アメリカ本土で山火事や停電を引き起こしたほか、民間人に死傷者を出すなど、戦果こそ僅少であったがアメリカ軍や政府に対応の手間をかけさせ、また国民に恐怖を植え付けることに成功した。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。