水際作戦(みずぎわさくせん)とは、軍事もしくは非軍事の分野で用いられる用語である。脅威となる対象や現象が、外方または自陣営で、発生または進行したのちに対処するのではなく、現象の発生直前、もしくは発生直後に自陣営の総力を以て対処し消滅させる作戦、戦術もしくは戦略の総称である。海岸に砲列を敷き、地雷、機雷、鉄条網などを敷設して水際陣地を構築、敵の上陸用舟艇には砲撃を加え、敵兵が上陸してきたら銃撃と歩兵の突撃で敵を撃滅するというもの。特に本用語の源流とも言うべき軍事分野では「内陸持久」、「持久戦」の対義語として扱われた。日本やイギリスといった、国土が狭隘で多くの産業が高度に密集発展した近代国家での内陸持久には、特に不利な点が多い。これは多くの一般市民の犠牲、国土の荒廃といったマイナス面が大きいためである。内陸持久には、自国である事による地の利を生かした用兵、ゲリラ戦術など効果的な抵抗が可能で加えて兵力の水際配備による遊兵の発生を減らす事ができるといった利点はあるが、結局それら作戦の長短を比較し伝統的に水際作戦のドクトリンが採用されてきた。ただし、太平洋戦争で極めて強大な火力、兵站力を持つ米軍を相手に戦った日本軍においては、水際配備した兵力が圧倒的な規模の爆撃、艦砲射撃により、作戦初期段階で失われる事態が多発した。このため、戦争最末期の硫黄島の戦い、沖縄戦では水際作戦の伝統を放棄して、内陸持久に転換し、結果、効果的な抵抗で米軍に多くの打撃を与え、長く足止めすることに成功した。このため警察予備隊草創期からソビエト連邦軍を主要仮想敵とした陸上自衛隊は、「年度防衛及び警備計画」によって北海道に侵攻したソ連極東軍を石狩平野や音威子府峠で迎え撃ち、ソ連軍の侵攻を出来るだけ引き付けた上で、米軍の来援まで耐え抜くという内陸持久型の戦法をとっていた。しかし、ソ連軍の狙いは津軽海峡と宗谷海峡の安全航行であるとする、陸戦研究の論文が発表された1984年(昭和59年)に、陸上自衛隊は従来の方針を転換して、洋上水際撃破型に戦法を転換した。装備も長射程の地対艦誘導弾や多連装ロケットシステムや地対空自走砲、対戦車ヘリの整備が重視され、これらの高額な装備導入に多額の予算が投じられた。ソ連軍の北海道侵攻に際して、航空自衛隊は千歳基地の戦闘機部隊を全て本州の三沢基地、百里基地、小松基地に避難させる事になっていた。海上自衛隊は四個護衛隊群の全てを米海軍第7艦隊のエスコートに回し、北海道で孤軍奮闘の持久戦を強いられる陸自部隊への援軍として派兵される米軍部隊の航行の安全を確保する事になっていた。軍事的な用語以外での水際作戦の意には、役所の福祉事務所が健康上・経済上の理由等で、生活保護法による生活保護受給を希望する生活困窮者に対し、担当職員(俗に「門前係長」とも形容される)が、耐え難い言動を並べ申請者を罵倒する、虚偽も含め様々な理由を挙げ申請書類を交付・受理しない(生活保護問題)、又は日本の警察、特に地域課、生活安全課等の警察官が、被害を訴え告訴状・被害届を出そうとする犯罪被害者に「民事不介入」という、もっともらしい理由を付けて、被害届や告訴状を受理しない、更にはそれに疑問を呈し抗議するような態度を取る被害者を脅迫するといった、所謂「門前払い」による母数減らしの職務態度が「水際作戦」と官公庁内部や弁護士で呼ばれる事がある。年々新種の発生、流行が確認される新型インフルエンザ、又は突発的に発生し、各国で社会不安を起こすエボラ出血熱やSARSといった感染症対策、公衆衛生において、その国の公衆衛生担当官庁が、病気が自国内で大流行してから、予防・治療を行うのではなく、港・空港での検疫の強化、感染者の隔離といった初期段階での迅速な対処、初動対応を重視する事を、当該官庁もしくは報道関係で「水際作戦」と表現することがある。学生が学校での日々の定期試験、またはより長期目標として上級学校進学のための入学試験他の試験全般である科目、特に自らの得意科目がいかに高得点であってもある一つの科目だけでも、落第点・赤点であったら、留年や不合格といった事態を招来する場合に、確実に高得点が得られる得意科目の学習時間を多少削ってでも、落第点の危険性が拭えない苦手科目の学習に時間を当てる、何であれ最悪の事態を避ける目的で、満遍無く学習時間(軍事であれば兵力)を費やす方策を学生語(ただし近年はほとんど用いられない)の他、学校教諭や塾講師が水際作戦と表現することがある。実はこれが用語の語源たる軍事の水際作戦の定義に最も近く、「苦手科目でそれほど難解な設問が出なかった」等の場合も学習時間のロス、軍事での「遊兵」と同じ無駄が生じる点も、また軍事と同様である。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。