株式会社M-TEC(エムテック、M-TEC Co., Ltd.)は、ホンダ車用アフターパーツの製造販売やレース用エンジンの開発製造を行う日本の企業。2003年設立。前身は株式会社無限(むげん)。2003年の法人税法違反(脱税)容疑事件をきっかけにM-TECを新たに設立され、2004年に無限のほぼ全ての業務がM-TECに譲渡された。なお現在も株式会社無限は存続しており、『無限』の商標は株式会社無限が保持している。そのため、M-TECは株式会社無限と『無限』ブランドの独占使用契約を締結して『無限』ブランドによる事業を展開し、株式会社無限はM-TECからライセンス料を得るという関係性にある。ここでは株式会社無限に関する記述も行う。(2003年以前は株式会社無限、2004年以降は株式会社M-TECによるもの)1985年から1993年まで全日本ツーリングカー選手権 (JTC) にシビックで参戦し、1987年から1988年および1991年から1993年にディビジョン1/クラス3のシリーズチャンピオンを獲得した。1994年から1995年まで全日本ツーリングカー選手権 (JTCC) にシビックフェリオ、1996年から1997年までアコードで参戦し、1997年にはシリーズチャンピオンを獲得した。1998年から2003年まで全日本GT選手権 (SUPER GT) のGT500クラスにNSXで参戦し、2000年にはドライバー/チーム、2002年にはチーム/チューナー部門でシリーズチャンピオンを獲得した。また、1976年から1992年までの16年間、全日本モトクロス選手権に無限オリジナルモトクロッサー・MEシリーズで参戦した。1980年のモトクロス世界選手権アメリカGPの125ccクラスにおいて、ジョニー・オマラのライディングで優勝を飾っている。2004年は、前年のGT500に出走していたNSXに若干の変更(タイヤをブリヂストンからダンロップに変更する等)を加え、GT300クラスに参戦した。開幕戦から常に上位争いに加わり、シリーズチャンピオンを獲得した(優勝は最終戦の1回)。ちなみにシーズン当初は「ちょんまげ」(ルーフの上に設置されるエアインテークの通称。メーカーオプション)を封印していたが、最終戦以降使用していた。2005年も常に上位にいたが、第4戦(スポーツランドSUGO)における対応(車両火災によるレース中断時に、オフィシャルが誤って車両を破損)を巡って、監督がオフィシャルを殴るというトラブルを起こし、チームは同レースでのポイントを剥奪され一歩後退した。それでも最後にはシーズンランキング2位に食い込んでいる。翌2006年より独自チームでの参戦はいったんなくなったが、2012年に第4戦(スポーツランドSUGO)よりCR-Zで参戦することが決まり、7月4日にもてぎのシェイクダウン走行と合わせて正式な体制が発表された。2013年にはドライバー/チームのシリーズチャンピオンを獲得した。2005年からは、メンテナンスガレージ及び実質レース運営としてチーム国光の100号車を請け負った。2006年より始まった全日本スポーツカー耐久選手権 (JLMC) へ第2戦より参戦した。マシンはクラージュ・C70で、エンジンはMF458S (V8 4,500cc NA)、タイヤはミシュランを使用。しかし、2007年シーズンをもってJLMCが消滅したため参戦を終了した。エンジン・マニュファクチャラーとしては、SUPER GT(GT500のNSX及びGT300のVemac・RD408R)やフォーミュラ・ニッポンやF3等でエンジン供給を行っている。2008年からは世界ツーリングカー選手権 (WTCC) に参戦するホンダ・アコードユーロRにもエンジン供給を開始した。2010年よりフォーミュラ・ニッポンへ独自チームでの参戦を開始し、シリーズ名称がスーパーフォーミュラに変わった2013年にはドライバーズチャンピオンを獲得した。2012年には競技用車両の電動オートバイ『神電』(shinden) を開発し、この年からマン島TTレースのTT-Zero Challengeクラスに出走している。2012年・2013年はクラス2位、2014年・2015年はクラス優勝した。1987年から1988年にかけて、無限単独でF1用V8エンジンの製作に入った。そしてティレル・018や全日本F3000で使用されたレイナード89D改を使用してのテスト走行を行った。しかし、これと前後して後述する無限ホンダV10エンジン計画が動き出した。結局このときに製作されたV8エンジンは実戦デビューすることはなかった。1992年から1993年まで、ホンダが前年にティレル・レーシングに供給したV10エンジン「RA101E」の開発を無限が引継ぎ、「MF351H」と改称したエンジンをフットワーク・グランプリに供給することを発表した。エンジンのブランド名は「無限-ホンダ("MUGEN-HONDA")」。ホンダは1992年限りでF1から撤退したが、その後も完全ではないものの、技術供与やエンジニアの派遣を行なっていた。1994年からはチーム・ロータスに供給を行った。新設計V10エンジンの「MF351HD」を投入した第12戦イタリアGPでジョニー・ハーバートが、予選4位を得る速さを発揮するが、決勝ではスタート直後にジョーダン・グランプリのエディ・アーバインに追突されてスピン。赤旗再スタートとなったが、新エンジンがレースカーに搭載された1基しかなく、旧型エンジン (MF351HC) を積んだTカー(スペアカー)でのピットスタートとなってしまった。結局、この年1度も入賞することはできず、資金難に苦しんだチームは1994年いっぱいで撤退した。排気量が3,000ccに縮小された1995年シーズンには、リジェ(1997年からはプロスト・グランプリ)に新エンジン「MF301H」を供給。1996年のモナコGPでは、荒れたウェットレースをオリビエ・パニスが制し、無限-ホンダに初勝利をもたらした。しかし、リジェを買収したプロストはオールフレンチチームを目指すため、1997年当時プジョーエンジンを使用していたジョーダン・グランプリと交渉の末、エンジンをスワップする形となった。1998年からジョーダン・グランプリにエンジンを供給することになり、同年のベルギーGPで、元ワールドチャンピオンのデイモン・ヒルが勝利し、このシーズンでチームはコンストラクターズランキングで4位となった。翌年にはハインツ=ハラルド・フレンツェンが2勝を挙げ、終盤までドライバーズチャンピオン争いに絡む活躍を見せ、コンストラクターズランキングで3位にまで躍進した。ジョーダン・グランプリへのエンジン供給は2000年まで続いたが、その年よりホンダがエンジンコンストラクターとして復帰したこと、チーム代表のエディ・ジョーダンが、B・A・Rと同等のワークスエンジンをホンダに要求、2001年からの供給が決まったことで、無限のF1活動は2000年限りで終了した。なお、FIA公式のリリースでは"MUGEN-HONDA"表記(2000年F1エントリーリスト、PDFファイル)、テレビ中継時表記は"HONDA"と記載していた。
出典:wikipedia
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