鹿野 忠雄(かの ただお、1906年(明治39年)10月24日 - 1945年(昭和20年)7月15日? 消息不明)は、東京生まれの博物学者。 理学博士で昆虫学者、探検家。 業績は多岐にわたり、生物地理学者、文化人類学者、民俗学者、または近年ではナチュラリストなどとしても知られる。 台湾を中心に東南アジアでさまざまな研究調査活動を行い、第二次世界大戦終戦直前の1945年夏、ボルネオ島北部で行方不明になり消息を絶った。当時38歳。 主な著書に『山と雲と蕃人と』などがある。陸軍省からボルネオの民族調査の依頼を受けた鹿野は、1944年(昭和19年)7月、妻と二人の幼子に見送られ東京を発ち、8月には北ボルネオに入っていた。翌1945年(昭和20年)、戦況がいよいよ悪化し彼らにも緊急で現地召集がかけられたが、キナバタンガン川上流地域の調査で密林に分け入っていた彼らは同年7月10日にキナバル山をのぞむ内陸の町タンブナン(丹布南)に入ってようやくそれを知らされた。同年7月15日、司令部のあったサボン(サポン、沙蓬)へ帰るため、助手の金子總平(後述)と同行の原住民(苦力)3名を連れてタンブナンを出発。だが、これを目撃されたのを最期に消息は不明となった。 また別資料ではこの出発後、空襲を受けた直後のケニンガウ()の町にも立ち寄っていたとするものもあるが、その後消息不明。鹿野の消息を説明する仮説は当時からおもに2つ存在していたとされ、1つは、当時日本軍に対するゲリラは各地に出没しており彼らに襲撃された可能性が高いとする仮説、もう1つは、逆に日本軍側の憲兵に撲殺されたとする仮説がある。ただし、いずれの説も当時の混乱のなか数少ない証言と噂や憶測を元に形成された仮説で確証は得られない。また、戦後からは生存説も信じられていた。その他論文多数。
出典:wikipedia
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