福原 良通(ふくばら よしみち 弘化4年(1847年) - 明治15年(1882年)は、日本の裁判官、宇部領主福原氏当主。別名駒之進、親徳。号は芳山。子に福原俊丸。長州藩の上級藩士粟屋親睦の次男として生まれるが、子のなかった宇部領主福原元の養嗣子となった。翌元治元年11月12日(1864年12月10日)に養父の元が禁門の変の責任を取り自害すると、家名は断絶となった。福原姓を憚り、福原氏発祥の城である鈴尾城から名字を取り、鈴尾五郎と名乗った。後に藩主毛利敬親より一字を与えられ鈴尾親徳(すずお ちかのり)と称する。慶応元年(1865年)、干城隊を組織してその総督となった。慶応3年(1867年)、藩命により大英帝国リンカーン法曹院へ留学、日本人として初めて法廷弁護士の資格を得て、明治元年には復姓した。明治7年に帰国して、明治4年より元山口藩石炭局主任の福井忠次郎が設立した炭鉱会社により独占されていた厚狭郡内の採鉱権を、私財を投げ打って買い戻した。明治9年(1876年)司法小丞、明治11年(1878年)には大坂裁判所判事。明治14年(1881年)、大審院詰となる。しかし、翌15年(1882年)に36歳で死去した。墓所は東京都台東区谷中霊園乙12号4側にあったが、平成14年(2002年)改葬され、山口県宇部市小串の宗隣寺に移設された。法名は瑞芳院感応道雄。現在、宇部市発展の礎を築いた「福原芳山」の名を冠した日本酒も存在する。子の福原俊丸は父祖の功績により男爵となり、東京帝国大学や早稲田大学講師、大蔵省臨時建築部技師などを歴任。後に貴族院議員となった。
出典:wikipedia
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