間宮 康俊(まみや やすとし、永正15年(1518年) - 天正18年3月29日(1590年5月3日))は戦国時代の武将。武蔵国久良岐郡の笹下城(篠箇城)主。後北条氏の家臣で相模十四騎筆頭とされた間宮氏の当主。歴代相模鎌倉郡玉縄城主で北条五色備えの黄備え隊大将を務める北条綱成・氏繁・氏舜・氏勝等の玉縄北条家の付家老を務めた。官途は豊前守、豊前入道を称す。法名は宗閑。大永6年(1526年)11月12日の鶴岡八幡宮の戦いの際に里見義豊等の攻撃により鎌倉郡の鶴岡八幡宮が焼失したため、天文元年(1532年)から北条氏綱が始めた鶴岡八幡宮の再建事業に天文5年(1536年)から参加し、部分的な普請や材木調達の役割を担った。この事業は、のべ5万人を動員した大事業だった。その際の総奉行は、北条幻庵が城主だった武蔵国橘樹郡の小机城代で大曾根城主、北条家五色備えの白備え隊副将を務めた笠原信為。他に間宮家の寄親である北条綱成が木材管理部門の奉行を務め、武蔵国久良岐郡蒔田城と荏原郡世田谷城を重要拠点として支配した足利家一門の蒔田御所・吉良頼康が材木輸送を担い、現在の横浜市港南区・中区・南区を流れる笹下川下流大岡川の水運を活用し、蒔田城下近くに広がっていた蒔田湾から水運で輸送した。その材木は間宮一族の所領の杉田湊へ集積管理され八幡宮再建の材木として使用された事から実際の管理は北条綱成に代わり間宮家が行っていた事が解る。八幡宮の塀の再建にも北条家親族重臣に並んで間宮康俊の名が見える。父・信元の代に笹下城を築城したと言われている。笹下城の所在地は江戸湾沿岸の杉田湊と、鎌倉への陸の進入経路である六浦道を抑える位置に当たる。永禄2年(1559年)の役帳では698貫を知行されている。他の一門衆もそれぞれ北条家より所領を与えられている。里見氏との関係が悪化してくると伊豆衆の水軍を管理し、江戸湾岸と三浦半島東側の監視警備も担当した。三浦半島走水では間宮軍が里見水軍を迎撃し、康俊の叔父に当たる間宮信次が玉砕したものの防衛に成功し敵船団を拿捕している。天正18年(1590年)の秀吉による小田原征伐では、松田康長が守る山中城へ援軍として赴き、敗戦を悟ると寄親の北条氏勝の軍勢と一族を玉縄城に撤退させ、自らは出城の岱崎出丸に手勢200人弱を率いて籠城。康俊の部隊は秀吉の本隊の8万超の軍団の先方大将羽柴秀次と堀秀政・中村一氏・一柳直末・堀尾吉晴・山内一豊等の大軍3万5千を迎撃し、その内6万石の大名一柳直末を討ち取るなど奮戦したものの衆寡敵せず、最期は「白髪首を敵に供するのは恥」と墨汁で髪を染め、敵中に突撃して戦死した(または自害とも)。※(渡辺了の証言では「本丸から誰か二人の人間の首を刎ねる音が聞えたと」有り、城主松田康長と共に切腹した説が有り、それが山中城址を管理する三島市の見解)。享年73。墓所は山中城址宗閑寺(静岡県三島市山中新田)。曾祖父は間宮信冬、祖父は間宮信盛、父は間宮信元。叔父に杉田間宮家初代の間宮信次(別名・常信)がいる。子に間宮康次、間宮康信、間宮直次、間宮善十郎、武田水軍の大将から後に徳川家に転仕し徳川水軍の水軍大将を務めた間宮信高、間宮元重、於久(徳川家康側室)、継(古河公方足利義氏家臣・豊前氏盛妻)などがいる。他に名の伝わらない子もいるとされる。孫には大久保長安の失脚後に佐渡奉行、但馬奉行を引き継ぎ、初代の本牧奉行を務めた間宮直元がいる。弟に北条氏照の付家老で、織田家への北条家外交官を務め八王子城を縄張りした間宮綱信、間宮信好、間宮信俊がいる。有力一門に徳川家康の鷹匠頭を務め杉田梅林を造営した分家杉田間宮家江戸時代の当主の間宮信繁がいる。間宮信繁は間宮康俊の叔父間宮信次(別名:常信)の孫に当たる。樺太を探検し間宮海峡の地名由来に成った間宮林蔵は康俊系統子孫の間宮清右衛門家の出自と伝承する。弟間宮綱信の氷取沢間宮家系統の子孫には、新編武蔵風土記稿等の地誌を編纂した学者の間宮士信がいる。一族とされる系統
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