ロサンゼルスオリンピックにおける体操競技は、1984年に行われた。西側諸国のモスクワ五輪ボイコットに対する報復として、ソビエト連邦を中心とした東側諸国は出場していない。男子は団体総合・個人総合・種目別6種目の計8種目、女子は団体総合・個人総合・種目別4種目と新体操(個人総合のみ)の計7種目、合計15種目が実施された。観衆から10点満点を要求する歓声(テン・コール)が上がるなど盛り上がった影響もあり、10点満点をはじめ高得点が続出した。しかし、異なる難度でも着地が成功すればともに10点満点が与えられる等、着地のみを重視した傾向は日本国内外で批判された。このため翌1985年より、新たにD難度が設けられたり採点基準が厳しくなった。一方、華やかでアクロバット的な演技への評価が高まり、体操競技は新たな局面へ向かうようになった。個人総合は、持ち点(団体総合での獲得得点の半分)で5位の具志堅幸司が、第3種目の跳馬で10点満点を出し3位に浮上。続く鉄棒で首位になると、そのまま逃げ切り逆転優勝を果たした。種目別では、鉄棒にて森末慎二が団体規定・団体自由・種目別すべてで10点満点を出し、体操史上2人目・男子初の完全優勝を果たした。日本勢は直前、小西裕之がアキレス腱断裂のため代表から離脱するトラブルに見舞われた。団体は、1979年の世界選手権に続き、オリンピックでも首位の座から転落した。しかし、ベテランエースの具志堅が個人総合優勝、森末がオール10点満点での種目別鉄棒優勝を果たし、「体操ニッポン」の伝統をなんとか守り抜いた。この後、日本はこの二人のメダルを最後に、2004年のアテネ五輪まで金メダル獲得が無かった。ベラ・カロリーがルーマニアから米国へ亡命し同国のコーチに就任しており、カロリーの弟子同士の対決としても注目された。団体総合は、ルーマニアが悲願の初優勝を果たした。個人総合はエカテリーナ・サボー(ルーマニア)と地元のメアリー・ルー・レットン(米国)が接戦を繰り広げた。最終種目の跳馬では観衆からレットン・コールが巻き起こりレットンは10点満点を獲得。サボーを逆転してレットンが優勝した。"ゴムまり娘"と渾名されたレットンの活躍は、女子体操界に新たな一石を投じた。今大会から新たに採用された(女子競技の一種目扱い)。空調の風で帯状布(リボン)演技にミスが相次いだ。初代女王は東洋系カナダ人のローリ・ファンだった。日本勢は山崎浩子が8位入賞。持ち点は、団体総合(規定・自由)で各自が獲得した得点の1/2
出典:wikipedia
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