長内 孝(おさない たかし、1957年8月30日 - )は、青森県青森市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)、野球指導者。6歳のときに父が死去し、母・兄とともに神奈川県津久井郡城山町(現:相模原市緑区)へ移住して高校時代まで過ごしたため、神奈川県出身とする書籍も存在する。桐蔭学園高では1年生の時、一塁手として夏の甲子園県予選決勝に進むが、藤沢商に敗退。夏も県予選準々決勝で、原辰徳のいた東海大相模に逆転負け、甲子園には届かなかった。高校同期に水上善雄がいる。1975年のドラフト3位で広島東洋カープに入団。アッパースイング気味に強振する打撃でから一軍に定着し、には阪急から移籍してきた加藤英司を押しのけて一塁手のレギュラーを獲得した。に小早川毅彦が入団し一塁手の定位置を確保すると、外野手を兼ねて打線の中軸を担う。同年の日本シリーズでは、第3戦から小早川に代り一塁手として先発出場、シリーズ通算15打数4安打1打点ながらチーム日本一に貢献した。には小早川の長期欠場もあり、三番打者、一塁手に定着する。初めて規定打席(26位、打率.254)に到達、自己最高の19本塁打を放ち、チームもリーグ優勝した。安打数が三桁だったのはこれが最初で最後だった。また、長距離砲の山本浩二と衣笠祥雄が抜けた以降には四番打者を任された時期もあった。これで「凄い重圧だった。長く4番を打ってきた、浩二さんの偉大さが分かった」などと述懐もしている。ロッテ、広島、ダイエーでプレーした水上善雄とは高校の同期で、プロでは広島での1年間だけ同僚になる。同年のシーズン終了後、当時ダイエーの監督だった田淵幸一が「長嶋(清幸)と長内がトレード要員だ」と口を滑らせるトラブルが発生。長嶋は中日に移籍するが長内は広島に残留する。10月。リーグ優勝を決めたその日、喜びに浸っていた長内は祝勝会やビールがけ、ホテルでの優勝特番出演が終わった後、山本監督から急遽呼び出され、銚子利夫との交換トレードで横浜大洋ホエールズへの移籍を通告された。当初は「麻雀でもするのかな」などと思っていたらトレード通告で「2-3年、勉強して帰ってこい」などと言われ、当時34歳の彼は「プロ野球の世界、トレードは仕方ない。でも、もうないだろうと思っていたからビックリしたし、ショックだった」という。これで高校時代までの地元神奈川県に戻ることになった。チーム名が横浜ベイスターズへと変わったシーズン終了後に現役引退。引退翌年のに打撃コーチとして約束通り広島に復帰し、に退団。、8月10日に広島市西区に焼鳥屋「野球鳥 おさない」をオープンした。3月1日には店名変更により「カープ鳥 おさない」になった。後述の現場復帰期間中も夫人と長男によって営業を継続。店内には優勝した試合で着用したユニフォームが飾られ、本人がそれを着用することもある。、8月1日に四国アイランドリーグplusの徳島インディゴソックスのコーチに就任。10月30日にオリックス・バファローズの一軍打撃コーチへの就任が発表された。前年リーグ最下位だったチーム打率・得点を打率2位、得点3位に押し上げたが、2014年10月16日に退団の申し入れをし受理された。
出典:wikipedia
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