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懿公 (衛)

懿公(いこう、紀元前?年 - 紀元前660年)は、衛の第19代君主。恵公の子。恵公の子として生まれる。恵公31年(前669年)5月、恵公が薨去したため、子の姫赤(以降は懿公と表記)が立って衛の君主となった。懿公は即位してから鶴を好み、鶴を大夫の車に乗せたり鶴に禄位を与えるなど、淫楽奢侈な性格であったため、人民も大臣もみな服従しなかった。懿公3年(前666年)1月、衛が王子頹(たい)をかくまっていたため、周王は斉に命じて衛を攻撃させた。斉の桓公は衛の罪を責めたが、懿公が賄賂を差し出したため軍を引いた。懿公9年(前660年)12月、北の異民族の翟(てき、狄)が衛を攻撃してきた。懿公は出兵しようとしたが、兵は従わず、大臣にいたっては「鶴が好きなら鶴に翟を撃たせたらよいでしょう」と言うありさまで、誰も懿公に従おうとはしなかった。そこで懿公は石祁子と寧荘子の2人に夫人を守らせ、渠孔と子伯に戦車を任せ、黄夷を先鋒に、孔嬰を殿軍に任命して出陣した。懿公はこの少数の衛軍を率いて翟の軍勢と熒沢の地で戦ったが、懿公が旗を立て通したため集中射撃を浴びて戦死した。こうして衛は大敗し、翟によって都の朝歌が攻め落とされた。都城などから脱出した5千人の遺民たちは黔牟の甥である姫申(戴公)を衛君に立てて曹に遷都した。『呂氏春秋』巻11・忠廉紀によると懿公は殺害後、人に食べられてしまい肝臓だけが打ち捨てられた。寵臣の弘演という者がそれを見て悲憤し殉死を決意。自殺すると遺言通り、腹を切って肝臓を取り出し代わりに懿公の肝臓を入れて葬られた。ちなみに衛の懿公は中国史上唯一の人に食べられた人君である。

出典:wikipedia

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