シンガポール華僑粛清事件(シンガポールかきょうしゅくせいじけん)とは、1942年2月から3月にかけて、日本軍の占領統治下にあったシンガポールで、日本軍(第25軍)が、中国系住民多数を掃討作戦により殺害した事件。1947年に戦犯裁判(イギリス軍シンガポール裁判)で裁かれた。1942年2月15日、イギリス軍が日本軍の第25軍に降伏し、日本軍はシンガポールを占領した。同月21日に、第25軍司令部は、「抗日分子」や旧政府関係者の摘発・処刑のため、シンガポールの市街地を担当する昭南警備隊、シンガポール島のその他の地域を担当する近衛師団、マラヤ半島のジョホール州を担当する第18師団およびジョホール州以外のマラヤ全域を担当する第5師団に粛清を命じ、シンガポールを含むマレー半島各地で掃討作戦が行われることとなった。日中間の戦争状態が拡大する中で、東南アジア各地では、華僑による抗日運動が盛んになっており、特にシンガポールの華僑は1938年10月の南僑総会の組織化に中心的な役割を果たし、1941年12月30日にはイギリス当局の要請もあって中華総商会を中心に星州華僑抗敵動員総会を発足させるなどしていたため、日本軍はシンガポールの華僑が抗日運動の中心になっていると見なしていた。シンガポールの占領後、戦闘部隊は不祥事件の発生を警戒してシンガポール郊外に留められ、1942年2月16日に、市内の治安維持やイギリス軍の武装解除にあたるため、第2野戦憲兵隊がシンガポール市内に入った。同月17日、第5師団歩兵第9旅団長だった河村参郎少将が昭南警備隊の司令官に任命され、同警備隊には、第2野戦憲兵隊に加えて、第5師団から歩兵第11連隊第3大隊と第41連隊第1大隊が配属された。また軍参謀・林忠彦少佐が警備隊付とされた。第25軍の山下奉文軍司令官は、河村少将に、軍の主力部隊を速やかに新作戦へ転用するため、シンガポールの治安を乱し、軍の作戦を妨げるおそれのある華僑「抗日分子」を掃討することを指示した。作戦の詳細については軍参謀長・鈴木宗作中将、軍参謀・辻政信中佐から指示があり、掃討作戦の終了後は警備隊の兵員を別作戦に転用するので、作戦を同月23日までに終わらせること、選別対象は元義勇軍兵士、共産主義者、略奪者、武器を所持・隠匿している者および抗日分子となるおそれのある者とすること、掃討の方法として、中国人の住民を集めて抗日分子を選別、並行してアジトを捜索して容疑者を拘束し、秘密裏に処刑することなどが伝えられた。また辻参謀が作戦の監督役とされた。河村少将は、処刑すべき対象の選別が難しいと鈴木参謀長に相談し、先に入手していた抗日組織の構成員名簿をもとに選別を行うことにした。その後河村少将は第2野戦憲兵隊の大石隊長に指示を伝え、大石隊長が林忠彦参謀と相談して後述の警備隊命令を作成した。また憲兵は選別を担当することとし、処刑場所の選定や処刑方法は近衛師団の歩兵を憲兵の補助に充てた「補助憲兵」が担当することとした。2月19日に山下軍司令官の名で「シンガポール在住の18-50歳の華僑は21日正午までに所定の場所に集合せよ」とする警備隊命令が布告された。2月21日から23日にかけて、憲兵隊はシンガポールを5つの地区に分けて検問を行った。集合場所に集まってきた華僑を尋問し、選別された華僑をトラックに載せて海辺などに連行し、機銃掃射により殺害した。戦後にシンガポールの首相となったリー・クアンユーも集合場所に集まったが、身の危険を感じて逃げて、危うく虐殺を逃れたと、回顧録で述べている。「抗日分子」の選別は、事前に取り決めた名簿に照合する方法で厳密に行われていたわけではなく、辻参謀が現場を訪れて「シンガポールの人口を半分にするつもりでやれ」と指示を飛ばすなど、粛清する人数そのものが目的化されていたため、外見や人相からそれらしい人物を適当に選び出していた。このため、多数の無関係のシンガポール華僑が殺害された。23日までに処刑された人数は河村少将の法廷での証言では4-5千人、日記では約5千人とされている。同日時点では重要人物は引き続き留置取調べ中で処刑未了となっていたが、24日に開催された作戦会議で、掃討作戦はいったん終了したと報告された。同月2月28日には近衛師団が抗日華僑の掃討作戦を行い、警備隊も抗日分子の逮捕に協力した(第2次粛清)。このとき殺害された人数は「非常に少ない人数」で、約300人だったとされている。その後第3次の粛清が同年3月上旬に行われ、このときも約300人が殺害されたとされる。なお、この事件のとき、シンガポール総日本領事館の篠崎護は、警備司令部特外高という立場を利用して、日本軍と戦前から関係あることを示す保護証を作成・発行して、多数の華人を摘発から免れさせた。戦後にシンガポールの中華総商会主席に就いた陳共存(K・C・TAN)も保護証で難を逃れたと述べている。1947年3月10日、イギリス軍シンガポール裁判で、陸軍の、近衛師団長・西村琢磨中将、昭南警備隊長・河村参郎中将と、第2野戦憲兵隊長・大石正幸中佐ら5人の憲兵隊の将校が、一般住民の生命と安全に責任ある立場にありながら、シンガポールの中国系住民多数の殺害に関与し、戦争法規と慣習に違反したとして起訴された。ただし、起訴された被告に対して、粛清の命令を出したとされる上層部の第25軍の山下奉文司令官、軍参謀の辻政信中佐・朝枝繁春少佐は、後述した理由で、この裁判では拘束・起訴されなかった。1947年3月10日からシンガポールのビクトリア・メモリアルホールで開始された裁判では、主として、上官命令が戦争犯罪行為の弁護理由になるか否か、粛清・虐殺が「軍事的必要が緊急かつ不可避に要求するもの」であったかが議論された。検察官側は、事実関係として、の華人が殺害されたと主張した。弁護側は、多数の殺害の事実関係そのものは争わなかった。一部の抗日華僑が民間人に変装してゲリラ活動を行おうとしたことは証拠があり、粛清は正当な戦闘行為の一環だったこと、各地区では上層部の命令に従って指示された対象を射殺しており、軍隊内での命令は絶対で逆らうことはできなかったことを主張した。また上層部を満足させるため、殺害した人数を水増しして報告しており、供述した人数が起訴状では民間人の証言によって更に水増しされていると主張した被告人もいた。これに対して検察側は、軍事上の必要性は戦争法規からの逸脱の免責事由にはならないと反論した。1947年4月2日、河村警備隊長と大石憲兵隊長の2人に絞首刑、他の5人に終身刑が宣告された。弁護側は、被告人全員の死刑を想定しており、判決は予想外のものだった。全員死刑とならなかった要因として、弁護人の1人は、弁護側のアドバイザーとなったベイト大尉から「グッド・フライデー前に酌量減刑の嘆願をすれば宗教的に好影響がある」との助言を受け入れて実行した結果、好影響があったとしている。このほかにもベイト大尉は、英軍がイギリス攻略の際に類似のゲリラ殲滅作戦を行った例を挙げたり、広島・長崎における原爆による一般民衆の被害状況を訴えて判決を有利に導いたとされる。他方で中国系住民にとっては不満の多い判決となり、中国系の新聞は裁判の量刑が不当であると非難し、再審を求める論評が相次いだ。しかし確認官は「終身刑は十分に重い刑罰である」として確認結果を判決どおりとした。同年5月29日、確認結果が発表され、同年6月26日にチャンギー刑務所で2人の死刑が執行された。第25軍の山下奉文司令官は、アメリカ軍のマニラ裁判で死刑が確定し、1946年2月に処刑されていたため、起訴されなかった。華僑粛清を計画・主導したとみられている軍参謀の辻政信中佐は、終戦時にバンコクで僧に変装して潜行し、インドシナ・中国を経て1948年5月に日本に帰国、数人の元高級将校に匿われて戦犯追及を逃れていた。英軍は辻の帰国直後から辻の捜査を再開したが逮捕には至らず、1949年9月30日に戦犯裁判終了をGHQに通告した。GHQはそれを受けて辻を戦犯容疑者の逮捕リストから削除し、辻をGHQ参謀第2部(G2)のエージェントとして利用するようになった。結局辻が戦犯として逮捕・起訴されることはなかった。事件当時第2野戦憲兵隊の分隊長だった大西覚は、戦後の回顧録の中で、河村・大石はむしろ粛清に反対したが、命令の当事者の辻が戦犯逃れの逃亡中だったために、責任をとらされて処刑されたとしている。辻参謀とともに粛清を主導したとみられている軍参謀の朝枝繁春少佐は、戦後シベリアに抑留されていたため、戦犯裁判を免れた。軍参謀・林忠彦少佐は1944年に飛行機事故で死亡していたため起訴されなかった。事件に関与した第2野戦憲兵隊の憲兵将校のうち、合志中尉は別件で起訴され死刑を宣告されていたため、本件では起訴されず、河村・大石と同日に処刑された。また水野少佐はシンガポールへの送致が遅れたためか、約1年後の1948年3月に起訴され、担当地域での177人の殺害容疑のうち約120人の殺害を認め、終身刑を宣告された。この裁判がシンガポールにおける最後の裁判となった。シンガポール粛清事件による犠牲者の総数は、裁判の起訴状に記載がなく、公判の中でも明らかにされなかった。確認文書の中で確認官は「数千人」と記載している。戦後東京で陸軍大臣の下につくられた俘虜関係調査中央委員会第4班(責任者・杉田一次元第25軍参謀)の報告書では「3月末までに厳重処断を受けたるもの約5千名なり」とされているが、これは河村少将の日記に拠るものとみられている。シンガポール裁判に提出された証拠書類の中で、同盟通信の記者で第25軍のマレー作戦に従軍していた菱刈隆文は、1942年2月16日にシンガポール入りしてから2,3日後に、杉田参謀が、第25軍参謀作戦部(辻中佐、林少佐)の計画で抗日分子の容疑で5万人の中国人が殺されることになっていると話し、後に5万人を殺害することは不可能だと分かったが約半数は処刑したと話したこと、その約1ヵ月後に林参謀からも5万人を殺害する計画だったが約半数を殺害したときに作戦停止命令が出されたとの話を聞いたことを陳述している。シンガポールの許雲樵元南洋大学教授が作成した名簿では、犠牲者数は8,600人余りとなっている。事件の裁判に関する資料のうち、起訴状や宣誓供述書(日本語訳)は、弁護側の弁護士が日本に持ち帰った記録が刊行された中に含まれているが、裁判の速記録や証拠書類などはイギリス国立公文書館にしか現存しない。また河村少将の日記はその「抜粋」のみが東京裁判に提出され、現物の存在は不明となっていたが、1941年10月6日から1943年4月10日までの日記がイギリス国立公文書館に保管されていた。東京裁判には内容が少し異なる2種類の河村日記からの「抜粋」が証拠として提出されているが、日記原本と照合すると両者とも内容が原本と大きく異なっている。これは戦後、戦犯問題に対処するために日本陸軍が設置した俘虜関係調査中央委員会が「抜粋」を作成する際に被告人の弁護に有利になるよう、意図的に内容を改竄したものとみられている。1966年10月25日、日本政府はシンガポールとの間で、2,500万シンガポール・ドル相当の日本の生産物と役務を無償で供与する、という内容の戦後賠償協定を締結している。1976年2月15日の追悼式(日本占領時期死難人民記念碑にて毎年開催)には、高橋・シンガポール日本人会会長と林・日本商工会議所会頭が参列、供花した。1994年8月28日に、村山富市首相が日本の首相として初めて慰霊塔(日本占領時期死難人民記念碑)を訪れ、献花した。
出典:wikipedia
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