高沢 秀昭(たかざわ ひであき、1958年9月10日 - )は、北海道沙流郡門別町(現:日高町)出身の元プロ野球選手(内野手・外野手)、野球指導者。庫富小学校、門別中学を経て苫小牧工高に進む。高校では2年秋、3年春と夏の北海道大会でいずれもベスト4に進出したが、全国大会出場はならなかった。高校卒業後は王子製紙苫小牧に進む。スカウトの三宅宅三に才能を評価され、1979年のドラフト2位でロッテオリオンズに入団した。プロ3年目までは遊撃手だったが、故障のため外野手に転向した。は7月21日に2番・中堅手としてスタメンで起用され、残りのシーズンは全試合に外野手として先発出場した。は開幕から59試合で無安打だったのが12試合だけと好調な打撃を続けた。5月30日にはパ・リーグでは初となる1試合4二塁打も記録している。しかし、8月11日の円山球場での対西武ライオンズ戦でスティーブ・オンティベロスの打球を好捕した際に外野フェンス(コンクリート製)の角に激突し、右膝蓋骨を粉砕骨折して2ヶ月半にわたって入院した。この試合が同年最後の出場となったが、シーズンでは打率.317の成績を残し、初のベストナインとゴールデングラブ賞を受賞している。は9月29日の対阪急戦で佐藤義則から死球を受け、左手尺骨を骨折して全治1ヶ月となっている。はオープン戦で三塁にスライディングした際に左手薬指の靭帯を痛めたが、開幕までに復帰している。シーズン初の1番打者で起用された5月17日の対日本ハム戦では、4安打2本塁打4打点の活躍を見せた。オールスターゲーム第1戦では小松辰雄からの3ランホームランなどで4打点を挙げ、MVPを受賞した。同年後半は4番打者も務め、チーム最高の打率.292をマークしている。同年は3年ぶりにゴールデングラブ賞を受賞した。は4月は打率2割台前半と低迷したが、5月5日に猛打賞で3割を超えるとその後は好調を持続。オールスターゲーム第3戦で史上4人目の先頭打者本塁打を放ち、優秀選手賞を受賞した。9月1日の対南海戦からは不振のビル・マドロックに代わって4番を任された。また、シーズン終盤には松永浩美と首位打者を激しく争い、近鉄との10.19の試合前の時点で6試合を残して打率.3277となった。一方の松永はロッテとの3試合を残して.3234で、この日のダブルヘッダーでは7打数0安打以下ならば松永に逆転されるという状況で、監督の有藤通世からは「残り4試合あるが、この日でうちは終わりのつもりだから自分で首位打者を取れ」と言われてスタメンで出場した。第1試合では3打数0安打で打率を.3257まで下げ、4打席目には代打を送られている。第2試合では2打席目に安打を放って首位打者を事実上手中にした。さらに8回裏の4打席目に近鉄の優勝を打ち砕く同点ホームランを阿波野秀幸から放っている。これで打率を.3271とし、10回裏の5打席目では代打を送られている。その後は高沢は打席に立たず、一方の松永は10月22、23日の対ロッテ3連戦に出場し、初戦の1・2打席目にヒットを放って打率を.3263まで上げた。このため、ロッテ投手陣はこの試合の第3打席以降、日本新の11打席連続四球と勝負を避けた。この結果、初の首位打者のタイトルを獲得し、最多安打も記録した。11月の日米野球では1番打者としてスタメンで出場した第2戦で、9回にダグ・ジョーンズから同点タイムリーを放ちチームの引き分けにつながった。オフには1,500万円増の年俸4,500万円+タイトル料300万円(推定)で契約を更改した。はキャンプ前に右ふくらはぎ、キャンプ中盤に右肩、開幕直前には右太ももを痛めるなど、故障が相次いだ。さらに7月23日の対近鉄戦で帰塁した際に右足裏側を痛め、8月3日からスタメンを外れ、9月中旬に復帰後は指名打者として出場した。この怪我は捻挫と診断されていたが、オフに手術したところ剥離骨折だったことが判明した。入院中の11月13日に、高橋慶彦・白武佳久・杉本征使との大型トレードで水上善雄とともに広島東洋カープへ移籍する事が広島側によって発表された。高沢と水上へ連絡する前だったためロッテ側が態度を硬化させたが、その後の調整によりトレードが成立している。監督の山本浩二からはクリーンアップとして期待され、は開幕から3番・中堅手として起用されたが、故障の影響などから成績は低迷し長嶋清幸と併用されるようになった。オフには250万円減の年俸4,250万円(推定)で契約を更改している。は高卒2年目の前田智徳が急成長して外野手のレギュラーに定着した事もあり、守備固めや代打となっていた。このため、デーブ・ヘンゲルが不振で外野手を必要としていたロッテへ半ば戦力外の金銭トレードという形で復帰した。社長代行に就任した重光昭夫や、監督の金田正一から獲得の希望があったという。ロッテでも故障から本来のプレーを取り戻すことができず、本拠地を千葉マリンスタジアムに移転した、10月16日に翌年のコーチ就任を打診され、これを受諾して現役引退した。は二軍打撃コーチ、からは一軍の外野守備兼打撃コーチを務めた。には一軍の打撃不振のため、広野功と入れ替わる形で6月に二軍打撃コーチに転任している。その後再び一軍の打撃コーチを務めたが、5月にやはり一軍の打撃不振のため、秦真司と入れ替わる形で山下徳人とともに二軍打撃コーチとなった。その後、二軍の打撃兼外野守備走塁コーチとなっている。オフに退任した。また、には苫小牧市からスポーツマスターに任命され、子供たちに指導などを行なっている。11月28日には日本プロ野球70周年記念のOBオールスター戦で、10.19を記念したアトラクションで阿波野秀幸と対戦してセンター前ヒットを放っている。からは千葉ロッテマリーンズの少年野球教室『マリーンズ・アカデミー』でテクニカルコーチを務めている。初球から積極的に打ちに行く思い切りの良さがあり、広野功からは手の出が早く体の軸がズレない点を評価されていた。狙い球や投手のデータなどに関係なく、常にストレートにタイミングを合わせて投手と二塁手の間に強い打球を放つことをイメージしていたという。また、腰の回転で始動して腕が引き出される、という当時の通説が納得できず、手が先に動いて左足が着地して腰が回転する、という認識をしていた。内角に食い込む球に対して体が開かないため、詰まってもゴロなどにならず内野の頭を越す事が多かったが、一方で1984年には開幕から30試合ほど1試合平均1本のペースでバットを折っていた。1984年から1988年にかけては4年連続で2ケタ盗塁をマークしたように俊足でもある。俊足・強肩で、右翼手の定位置への外野フライなら相手にタッチアップを許さないと言われた。また、一、二塁間を抜けた打球にチャージをかけ、素早く正確な送球で三塁で走者を刺すプレーを得意とし、「突貫小僧」という愛称があった。打球を見て動き出すのでは遅いと考え、バッターのスイングの特徴から打球方向を予測し、両足へかける体重のバランスを変えていたという。打球判断の能力を磨くには、打撃練習で生きた打球を捕る練習が重要だと語っている。現役時代、知名度は高くないがトリプルスリーも狙える実力を持つ、パ・リーグを代表する野手という評価を受けていた。打撃コーチだった高畠康真からは、「1,000万円プレーヤーになれる才能がある」と事あるごとに暗示をかけられたという。衛星放送でメジャーリーグの試合を見るのが趣味だった。またプロ入り後に遠征での空き時間などの趣味としてハーモニカを始め、全日本ハーモニカ連盟から日本ハーモニカ賞を受賞している。ロッテ応援団による応援歌は、落合博満から引き継がれた「かっとばせ高沢 右へ左へ ホームラン」(ロッテの夢は 観客動員 100万人)だったが、1989年に初芝清が入団、翌年に自身が広島に移籍すると(落合と同じ東芝府中出身とあって)この応援歌は初芝に引き継がれ、1991年にロッテに復帰した際には別の応援歌となった。
また復帰した際の背番号は当時空き番だった「7」だったが、本人は「自分は1桁背番号は似合わない」と、2年目の南渕時高と交換してもらい、トレード前の「31」に戻した。
出典:wikipedia
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