レジス・ドゥブレ(Régis Debray, 1940年9月2日 - )は、フランスの哲学者、作家。メディオロジーの提唱者として、あるいは、ボリビアでのチェ・ゲバラのゲリラ闘争への参加などで知られる。1940年、フランスのパリにて生まれる。父ジョルジュは弁護士、母ジャニーヌ・アクレサンドルは政治家。パリのエコール・ノルマル(高等師範学校)で哲学を学ぶ。このときに、ルイ・アルチュセールに出会い、マルクス主義への理論的関心を高める。1963年に哲学のアグレガシオンに合格し、ナンシーのリセ教授となる。1961年、1962年の二度にわたってキューバを訪問していたドゥブレは、1965年にキューバのハバナ大学に哲学教授として赴任。フィデル・カストロとの知的交流を深め、1967年、『革命の中の革命』を刊行。武装闘争によるキューバ革命の正当性を謳った同書は、世界的なベストセラーとなるとともに、当時のゲリラ戦の理論的教科書として左翼革命家の聖典ともなった。1967年、ボリビアでのゲバラのゲリラ戦に加わり、現地の治安警察に収監される。これに対し、フランスで助命嘆願運動が沸き起こり、死刑を免れるも懲役30年の刑を受ける。その後、ジャン・ポール・サルトル、アンドレ・マルロー、シャルル・ド・ゴール、パウロ6世らを巻き込んだ国際的な釈放運動により1970年04月に釈放。チリに逃れたドゥブレは、サルバドール・アジェンデを取材し、1972年、『チリの道』を刊行。ピノチェト将軍によるチリ・クーデターを受けて、ドゥブレは1973年にフランスに帰国。1981年からのフランソワ・ミッテラン政権で外交顧問として参画する一方で、代表的左翼知識人として活躍。『ル・モンド』などで数多くの小説・エッセイを発表。徐々にメディア化する政権と距離をとるようになり、1988年、顧問を辞職。メディオロジーの構想は、1979年の『フランスにおける知識人の権力』においてすでみられ、その後の『誘惑する国家』や『イメージの生と死』でもみることができるが、1991年の『一般メディオロジー講義』以降、メディオロジーを新たな学問として提唱するようになる。メディオロジーとは端的に言えば、思想や言説のもつ力を、その思想なり言説がいかなるメディア(媒介)によって伝えられるのかによって問うことによって、人類史上の出来事(たとえば、初期キリスト教の形成や社会主義革命)を包括的に捉え直そうとする営みであるが、たとえば、1994年の『メディオロジー宣言』のなかでは、次のように説明されている。私はつまり、高度な社会的機能を伝達作用の技術的構造とのかかわりにおいて扱う学問を「メディオロジー」と呼んでいる。人間集団の象徴活動(宗教、イデオロギー、文学、芸術など)と、その集団の組織形態、そして、その痕跡を捉え、保管し、流通させる様態とのあいだに、できれば検証可能な相関関係をそれぞれの事例に即して論証することを「メディオロジー的方法」と呼んでいる。以後、ドゥブレは矢継ぎ早に著作を発表。メディオロジーに対しては正統派アカデミズムからの批判(たとえば社会学者のピエール・ブルデューのそれ)も大きかったが、1994年にはメディオロジー関連の著作を業績としてパリ第一大学で博士号、大学教授資格を取得。1996年には、機関誌『カイエ・ド・メディオロジー』("Les Cahiers de médiologie")を創刊。現在、リヨン第三大学教授。
出典:wikipedia
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