長島城(ながしまじょう)は現在の三重県北牟婁郡紀北町(旧紀伊長島町)に存在した日本の城(山城)である。標高146mの山城であり、比高差は144m。町指定史跡に指定されている。至徳元年(1384年)北畠氏の家臣であった加藤甚左衛門が築城した。応永2年(1395年)に奥村氏は尾鷲・紀伊長島に向かって攻めてきたため、加藤甚左衛門は尾鷲で迎え撃ったが内通者がいたため敗れた。その後、加藤甚左衛門は自刃した。天正4年(1576年)織田信雄が5代目の城主であった加藤甚五郎と奥村氏に熊野征伐を命じられた。三木城(現在の三重県尾鷲市)を攻め落とした堀内氏善は少しの兵力を残して新宮に帰ったが、それを狙って加藤甚五郎は奥村氏と三木城を攻め落とし、在城した。これを知った堀内氏善は天正4年(1576年)に2,000の兵力を率いて夜討ちをかけた。加藤甚五郎の軍勢は多数の死傷者を出しながらも何とか本拠であるこの城に戻ったが、奥村氏の裏切りにより更に不利な状況となり、数ヶ月間戦った後、紀伊長島城は焼失し、加藤甚五郎は自刃した。54歳であったといわれている。太平洋戦争の時に軍事監視所が置かれていた。現在は曲輪などの遺構は整備されており本丸跡地にはベンチもある。櫓台には携帯の通信施設が置かれている。
出典:wikipedia
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