ファーギー・フレデリクセン(Fergie Frederiksen、本名:デニス・ハーディ・フレデリクセン Dennis Hardy Frederiksen 1951年5月15日 - 2014年1月18日) はアメリカのミュージシャン(ボーカリスト、作曲家)である。TOTOの元メンバーとして知られている。1951年、アメリカ合衆国ミシガン州グランドラピッズで、デンマーク系の家庭に生まれる。13歳の時に歌い始め、15歳になると40歳代のミュージシャン・グループやをバックにクラブやパブでハイトーンを披露し、10代にしていろいろと学んだようである。へは、体操選手特待生として進学、1年の時にミシガン州チャンピオンとなり、将来のオリンピック選手として期待された。しかしながら、体操ではなく音楽で生計を立てる道を選んだ。1975年に、友人であるのリード・ボーカリスト、トミー・ショウがスティクス加入のため、フレデリクセンに代役を依頼、1976年のMS解散まで同バンドに在籍した。シカゴのがリード・ボーカリストを探しているという話を聞きつけ加入、1978年エピックより初のレコード・デビューとなる(原題はセルフ・タイトル)がリリースされた。(とクレジットされている。キーボードは後にプロデューサーとして名をはせる)通学と音楽活動でミシガンとイリノイを往復するのが苦で同バンドを脱退する。なお、後任ボーカルにはシカゴ大卒の数学者が加入、「」をリリースした。現在、ギタリストを中心にサードアルバムを製作中である。 大学卒業後はセッション・ワークを主体として活動、映画音楽やコマーシャル・に作品を残す。ヴィレッジ・ピープルの映画「」(邦題 ミュージック・ミュージック)のサウンドトラックにおいて名義で、を歌い、同アルバムは豪州でチャート1位、英国で9位となる。次作「」では、全曲の作曲に彼のクレジットが付いている。また同時期に、シェールにという曲も提供した。フレデリクセン本人は、このような性癖を持ったグループと活動したことに対して多くを語りたくないとのこと。また、初のソロ・アルバム、「」をスウェーデンのからリリース、同アルバムは流通量が少ないためかなり入手困難である。CMソングでは、クラフト・ゼネラル・フーズ社提供のCM歌を歌ったらしいが、本人が忘れてしまっている事もあり、商品名も判らず、インターネット上では確認出来なかった。フレデリクセンのソロ・アルバムは、のキーボーディストのの手に渡るところとなり、同バンドのリード・ボーカルとなる。ベーシスト と出会うことともなり、その後の共同プロジェクトの礎となる。エンジェル時代の公式盤は発売されなかったものの、非公式音源集「Angel Rarities collection」にてフレデリクセンの歌声を聞くことが出来る。なお、そのうち数曲はのアルバムでは公式曲となっている。1982年頃にカンサスのリードボーカルのスティーヴ・ウォルシュが脱退。サミー・ヘイガーを含む200人が挑んだ後任選出オーディションでジョン・エレファンテと争そったが敗北する。しかし、同バンドのマネージャー バッド・カーの目に留まることとなり後の道が開けた。率いるサバイバーの新リード・ボーカルに収まりそうになったが、結局アルバム「」にてバックグランド・ボーカルをスパークルしただけで終わってしまう。日本ビニール盤ライナーには、Background vocals:Fergie(姓表記なし)と記載されているだけの扱いで印税収入もなかったが、ピータリック人脈は2000年代に入り活きて来ることになる。83年になると、(前身バンドLevee Bandにボビー・キンボールが所属)のリード・ボーカル・スポットに空きがあるとマネージャーのから聞きつけ加入、アルバム「」をRCAレコードからリリースする。(前ボーカル ポラードはバプテスト教会の牧師となる)この当時のアナログ盤の表記では、Dennis Frederiksenに戻っていて、カンサスの初期アルバムの録音で有名なルイジアナ州ので製作された。フレデリクセンと女優との破局を描いた曲「キャリーズ・ゴーン」はチャートの79位であった。なお、ハミルトンは日米合作映画 TOKYO-POPで主演している。その後、フィリップスらとというユニットを結成、ドラムスにパット・トーピー、ギターにと、キーボードにという布陣で、映画のサウンドトラック、 Over Night Sensationなどを制作する。フィリップスがフレデリクセンのデモ・ビデオをトトのドラマーのジェフ・ポーカロに渡したところ、同バンドに興味を持たれオーディションを受ける。ジェフ・ポーカロが強く強くフレデリクセンを推したこともあり、同予選でエリック・マーティンを退け、キンボールに代わってリード・ボーカルの座を獲得し、トト5枚目のアルバム「アイソレーション」をコロムビアから発売する。「」がヒットしたが、セールス的には前作を上回ることは出来なかった。次作「ファーレンハイト」ではバックアップ・ボーカルで1曲のみ参加しただけで、さまざまな理由により同バンドを脱退する。(スティーヴ・ルカサーとの対立が一因と言われている)1987年頃からは、ボストンのギタリストのの新プロジェクトでデモ作成に入り、同バンドのボーカルに納まりそうになったが頓挫、デモ音源だけが残っている。バンド名自体、ロンドンの曲Destination Zeroから採ったとする説もある。1991年には、セルフ・タイトルアルバム「」が発売されたが、全てブラッド・デルプ版になっていた。1988年ドイツに渡り、同国のヘビー・メタル・バンド、5曲目、「火の玉」で攻撃的バッキング・ボーカルをイグナイトする。この録音には、スウェーデンのも参加しており、フレデリクセンにとっては後期活動における重要な仕事となった。この後、「」しまい、音楽業界に嫌気が差し引退、数年間レストラン・ビジネスに携わる。音楽に対する情熱が再度湧き上がり、旧友フィリップスとレコーディング作業に入る。1994年に復帰作「」をリリース、アバンドン・シェーム時代の楽曲(ベイビー・ブルー・アイズとキャプチャード)も日の目を見ることとなる。97年、ジョセフ・ウィリアムズのソロ・アルバム「」にバックグラウンド・ボーカルで参加。1999年には、ソロ・アルバム「」を発表した。1997年頃からは、ステッペンウルフの、、サンタナの、ジャーニーのエインズレー・ダンバーらとの一員として参加、ライブ録音盤を複数製作、フレデリクセンにとっては安住の地のひとつとなっていた。メンバーの入れ替えが時々あり、2010年頃元ボストンのが固定メンバーとなっていた。コスモが歌う時はバックグランド・ボーカルを務めていた。2000年代に入ると、若い頃のような渡り鳥傾向は完全消滅、スタジオ録音作品はほとんど全てディナンダー・ファミリー/人脈上で作成される。レコーディングの安住の地である。の3作品「セレモニー・オブ・イノセンス」「Yeah」「テイクン」にリード・ボーカルを提供。2002年にはメッカのデビュー・アルバムに参加し、高い評価を受ける。2007年にはフレデリクセン/デナンダー名義で「バプティズム・バイ・ファイア」を発表。燃え尽きた男が完全復活を遂げる。他のディナンダー関連の作品では、フランスのギタリスト フレデリック・スラマのプロジェクトAORの作品「ナッシング・バット・ザ・ベスト」「ジャーニー・トゥー・L.A」に素晴らしいボーカルを提供する。ノルウェーの「ノーザンライト」、イタリアのマイランドの「ノーマンズ・ランド」日本盤ボーナストラックでも1曲ずつ歌っている。2012年6月には初代TOTOボーカリストのボビー・キンボール、元シカゴのビル・チャンプリン、元ジャーニーのスティーブ・オージェリーと東京・大阪・名古屋でVoice Of AORとして来日し、Isolationから4曲を披露し、ビル・チャンプリンとのデュエットでシカゴの「忘れ得ぬ君に」を歌唱した。フレデリクセンは、前妻の故郷、北欧系移民が多いミネソタ州ミネアポリス/セント・ポールツインシティーズ郊外に移住、同州にガッチリと根を下ろしていた。地元のローカル・バンド ハートブレーカーと一緒に州内でライブを散発的に行っていた。2009年からは、地元のボクシングの英雄の筋萎縮性側索硬化症・慈善コンサートを、元サバイバーのやリガートウッドとハートブレーカーをバックに開催していた。また、自身C型肝炎に感染していることを公表し、同疾病の啓蒙活動にも携わっていた。2010年6月に癌患者であることを公表した。2011年、ソロアルバム「ハピネス・イズ・ザ・ロード」、2013年 「エニー・ギヴン・モーメント」を発表。2014年1月18日、の自宅にて、肝臓癌により死去。ウェブマスターはノルウェー人の
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