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葛西満信

葛西満信(かさい みつのぶ、応安3年(1370年) - 応永27年(1420年))は、室町時代の大名。葛西氏当主。陸奥権守。葛西詮清(あききよ、初名:為清(ためきよ))の三男で、生母は南部氏。長兄に満清(みつきよ、通称:又太郎)、長姉(異母姉)に大崎詮持の妻、次兄に満宗(みつむね、通称:新三郎)、次姉に藤原常陸介祐重の妻、弟に江刺持重(もちしげ、播磨守)、葛西信貞(のぶさだ、通称:左衛門佐、葛西政信の外祖父)がいる。妻は薄衣志摩守清常の娘。子に葛西持信(もちのぶ)、孫(持信の子)に葛西朝信(とものぶ)、葛西政信がいる。父については、一部で持信とする説もあるが、詮清の「詮」、満清・満宗・満信の「満」、持信・江刺持重の「持」の字はいずれも足利将軍家(2代義詮、3代義満、4代義持)から賜ったものであり、その順序からするとこれは誤り(少なくとも持信より年少であることはあり得ない)と思われる。1370年、葛西詮清の子として生まれる。初め、名(諱)は貞信(さだのぶ)といった。弓馬に明るく、武勇に秀でた名将と伝わる。長兄の満清が永徳2年(1382年)3月18日に早世(享年19)、続いて次兄の満宗も至徳元年(1384年)2月7日に早世(享年18)したため、貞信が嫡男となり、父の死(時期不明)後その跡を継いだ。応永7年(1400年)8月、鎌倉公方家(足利満兼・満直・満貞兄弟)と対立して反乱を起こした宇都宮氏広(うじひろ)・同氏公(うじきみ)を、満兼らの要請を受けて義兄の大崎詮持と共同で攻め滅ぼし(栗原郡三迫の戦い)、桃生郡・牡鹿郡などに領地を加増され、葛西氏最大の版図を築いた。同年10月に上洛して将軍・足利義満に謁見、偏諱(「満」の字)を賜り満信に改名した。この際に伊達政宗とともに奥州探題に任ぜられたといわれるが詳細は不明である。死後、跡を子の持信が継いだ。満信の没年については、応永27年(1420年)11月18日(享年51)とするもの、文安元年(1444年)6月13日(享年78)とするものがあって確証がない。

出典:wikipedia

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