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三浦為時

三浦 為時(みうら ためとき)は、江戸時代前期から中期にかけての紀州藩家老。三浦長門守家第2代当主。官位は従五位下長門守。叔母は徳川頼宣の生母・養珠院。慶長14年(1609年)5月20日、三浦為春の三男として常陸国茨城郡水戸(現在の茨城県水戸市)で生まれる。幼名は満之助。慶長16年(1611年)に駿河国に移り、慶長20年(1615年)に叔母の養珠院の面前で従兄の徳川頼宣に拝謁。元和5年(1619年)の頼宣の紀州転封に父と共に同行し、左近将監を称する。元和7年(1621年)に13歳で頼宣に仕える。元和9年(1623年)には頼宣の供をして上洛し、翌寛永元年(1624年)1月に大御所・徳川秀忠、第3代将軍・家光に拝謁する。同年、父の隠居により家督相続し、自身の2,000石と合わせて知行1万石となる。寛永3年(1626年)に頼宣の供をして上洛し、後水尾天皇の二条城行幸に供奉する。同年7月30日に頼宣の面前で元服。寛永9年(1632年)、養珠院の養女(小笠原清政の娘)と婚姻。寛永12年(1635年)に附家老・安藤直治が死去すると、遺児の千福丸(のちの義門)は幼少であったため、頼宣の命により為時は附家老・水野重良と共に大老として藩政を任されることとなった。寛永14年(1637年)1月5日、従五位下長門守に任官し、同年1月21日に江戸城で将軍・家光に拝謁した後、和歌山に帰国。承応元年(1652年)に父・為春が死去すると、頼宣は為春の隠居料5,000石を為時に与えるとした直状を出したが、為時がこれを固持したため、翌承応2年(1653年)に頼宣の使者として彦坂八郎右衛門が和歌山に下向し、「古の五千石は東照神君(家康)の命ずるところなり。後の五千石は台徳院殿(秀忠)の命ずるところなり。今の五千石は二品(頼宣)初めて賜うところなり。辞すべからず。」と命じたところ、為時は遂にこれを拝受して知行1万5,000石となった。同年、附家老・安藤義門が元服したため、為時は大老の辞任を願い出たが、寛文7年(1667年)に再度辞任を願い出るまで頼宣の許しは得られなかった。延宝4年(1676年)11月11日、死去。享年68(満67歳没)。墓所は和歌山県和歌山市の了法寺。家督は嫡男・為隆が継いだ。

出典:wikipedia

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