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徳島町

徳島町(とくしまちょう)は、徳島県徳島市にある町。内町地区に属している。1丁目・2丁目・3丁目・城内(じょうない・しろのうち・じょうのうち)がある。「徳島町城内」は、徳島町の小字であり、市の行政などでは徳島町に含められるが、徳島町に含めないこともあり、その扱いは一定しない。郵便番号は1~3丁目は770-0852、城内は770-0851。2011年6月1日。徳島市の調査より。徳島市中央部、都心地域(中心市街地)北東部のひょうたん島(内町地区)北東部に位置し、徳島城跡(ほぼ全域が徳島中央公園)とその周辺を占める。東は国道11号を挟んで(北から)中徳島町・徳島本町・新蔵町、西は前川橋から伸びる道を挟んで東出来島町、北は助任川を挟んで(西から)南前川町・助任橋、南西はJR(旧寺島川)を挟んで(西から)寺島本町西・寺島本町東・幸町と隣接している。面積では徳島町の大半が旧徳島城内にあたる徳島町城内である。城跡はほとんどが徳島中央公園になっているが、その西(花畑)と南は公園から除外され市街となっている。公園の中央は城山が占め、市街や公園施設は西部と南部に二分されている。城跡内南部の旧徳島城表御殿庭園は国名勝に指定され、隣接して徳島市立徳島城博物館がある。徳島公園より南も公共施設で占められ、旧三木郭・旧寺島川河道に徳島市立文化センター・徳島県青少年センター(とくぎんトモニプラザ)・徳島市中央公民館/徳島市立図書館・徳島市社会福祉センターが並ぶ。城跡内西部の西の丸跡は徳島市立内町小学校になっている(ただし小学校は中央公園には含まれない)。さらに西の花畑(御花畠屋敷跡、旧徳島刑務所)東部には、徳島市立体育館と徳島県立中央武道館がある(中央公園内)。県道30号を挟んで西の花畑西部は中央公園の外になり、徳島地方合同庁舎と、住商併用地区がある。ここが城内唯一の民有地地区であり、ほとんどの住民がここに住んでいる。南西部にはJR徳島駅の徳島運転所・徳島保線区などがある。ただし城内側には関係者用出入口しかなく、駅を利用するには反対側の寺島本町に回る必要がある。西の徳島公園と東の国道11号に挟まれた街区で、南から1~3丁目が並ぶ。ただしそれらは連続しておらず、1丁目と2丁目の間で11号に直交する国道192号北側が徳島本町となり分断されている。徳島城、徳島(中央)公園開園後の詳細についてはそれぞれの記事を参照。縄文海進期には、城山を残して海だった。当時は海岸だった城山山麓に住民がいたことが、城山貝塚からうかがえる。1385年に細川頼之が城山に築いた渭山城を、1586年に蜂須賀家政が修築し徳島城とし、ここを居城とした。『阿淡年表秘録』によると、1585年に豊臣秀吉の命により蜂須賀家政が渭津城を居城と定めたとき、「渭津を改め徳島と号す」とある。近世には徳嶋とも書かれた。徳島の語源は、『大日本地名辞書』によると、『古事記』で火遠理命が妃豊玉姫に贈った歌とされるが、確かではない。この歌は徳島と直接の関係はなく、この地が古代の加茂郷(北西の加茂地区に地名が残る)であることから「鴨とく島」にかけたとされる。中世の地名である富田庄の「富」にかけ、また、東の福島と対になる島として、同様の嘉字「徳」を使い徳島と名づけたとも言われる。渭津か徳島かはしばらく一定せず、1600年ごろ渭津、1608年徳島、1652年渭津、1678年徳島と再三改名されたが、それ以後明治まで徳島の名が続いた。徳島とは本来は、北を助任川・東を福島川・西を寺島川・南を新町川に囲まれた中州に与えられた名である(広義には城下町全体が徳島と呼ばれた)。徳島のうち徳島城より東は、重臣の屋敷や、会所など藩の施設が立ち並ぶ武家地となった。徳島城の西は瓢箪島・出来島に繋がっていたが、出来島は人工の瓢箪堀で徳島から切り離され、瓢箪島は徳島城内の御花畠となった。徳島城の東に広がる武家地は単に「徳島」と呼ばれた。現在の徳島町1~3丁目・中徳島町・徳島本町・新蔵町に相当した。なお、現在は新蔵町に隣接する中洲町は、当時は新町川の河道だった。1812年(文化9年)の島々丁名改目録によれば、徳島には以下の12町があった。現在の街区単位の町割と異なり、通り単位での町割だったため、現在との対応は複雑である。徳島城大手門(鷲の門)からは本丁、その右手(南)に新御蔵丁・南浜側、左手(北)に裏ノ丁が、東へと伸びた。本丁からのびる南北の町筋の馬場筋が南浜側東部と接した。東端の福島川沿いには、福島橋西詰から南へ東浜側があり、中央部で新御蔵丁、南端部で南浜側と接していた。本丁と裏ノ丁の両西端には、城地を隔てた濠沿いに御堀緑があり、その北の助任川沿いまでは、御廐丁がのびていた。その一筋東に、裏ノ丁西部から助任橋南詰までの会所丁があり、会所丁から東へ余り丁がのびていた。東端は、福島橋西詰から福島川沿いに北へ、北浜側があった。文政年間の「阿州徳島藩御家中録」によれば、新御蔵丁には長坂三郎左衛門(1066石)、家老池田登(5000石)、藩水軍総帥森甚太夫(1016石)、西尾和馬(1800石)、中村主馬助(2000石)、家老蜂須賀安芸(4000石)、仁尾内膳(1000石)、蜂須賀隼人(1300石)ら高録藩士の屋敷が立ち並んでいた。このほか御廐丁北端部西側に北御蔵、会所丁北端部東側に会所、本丁から新御蔵丁にかけて新御蔵、徳島御殿前から北浜側にかけて徳島御殿、馬場筋から東浜側にかけて南浜御屋敷があった。1871年(明治4年)の「藩士籍」によると、徳島には士族27戸・113人、また同年の「藩卒籍」では卒族215戸・851人と記録され、旧藩重臣の中村勝順、森時純、池田登、林有の各氏が町内の触頭を勤めている。1889年(明治22年)の市制町村制施行により、徳島は徳島市の町「徳島町」となった。徳島町はの6字からなった。同年の戸数442・人口1840人、財政規模は、収入383円33銭・支出386円52銭。現在の徳島町城内は、長らく全体が公有地で町がなく、明治期の扱いは不明瞭だが、1941年までには徳島町に含まれたようである。1941年(昭和16年)、旧徳島町は、徳島町1~3と城内・徳島本町1~3・中徳島町1~3・北徳島町1~2・新蔵町1~3・中洲町1~3・寺島本町東1~3に分割された。1975年(昭和50年)中徳島町・北徳島町の各一部が徳島町に編入された。全域が内町小学校と徳島中学校の学区である。

出典:wikipedia

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