伊敷(いしき Ishiki)は鹿児島県鹿児島市の町名。旧鹿児島郡鹿児島近在上伊敷村、鹿児島郡伊敷村大字上伊敷。伊敷一丁目から伊敷八丁目及び伊敷町があり、伊敷一丁目から伊敷八丁目の全域では住居表示を実施している。人口は8,624人、世帯数3,868世帯(2009年9月末現在)。郵便番号は伊敷は一丁目から伊敷八丁目まで全て890-0008、伊敷町は4710~4741及び4747~4761-3は891-1203、その他は890-0003。鹿児島市の中北部、甲突川の中流域に位置している。町域の北方には皆与志町、花野光ヶ丘、南方には小野、小野町、下伊敷、西方には犬迫町、東方には岡之原町、西伊敷、千年、下田町、伊敷台がそれぞれ隣接している。町域の中央部を甲突川が南北に流れており、それに沿って国道3号が通っている。また北東部から南西部を九州自動車道が通り、鹿児島北インターチェンジが所在している。福岡方面と指宿方面の出入り口は甲突川を挟んで反対側にあり、国道3号と指宿側出入り口を結ぶ鹿児島県道18号鹿児島北インター線が通る。町域内には1961年(昭和36年)に鹿児島市電伊敷線のうち下伊敷電停~上伊敷電停間が開通し、上伊敷電停が設置され、1962年(昭和37年)に伊敷町電停に改称された。1985年(昭和60年)に伊敷線の全線が廃止されたのに伴い、上伊敷電停も廃止となり町域内から駅(電停)は消滅した。上伊敷村という地名は南北朝期より見え、薩摩国鹿児島郡のうちであった。正平13年の島津氏久宛行状に「鹿児島郡内上伊敷村地頭職」と見えるのが上伊敷の地名の初見であると考えられており、この宛行状により山田忠経に宛がわれた。同年には上伊敷村及び下田村(現在の下田町)の地頭職が山田忠経に宛がわれた。江戸期には鹿児島郡鹿児島近在のうちの上伊敷村となり、村高は「天保郷帳」では1,886石余、「旧高旧領」では1,820石余であった。村内の仮屋には藩の役所が置かれた。甲突川には文化年間に切石を積み上げた、石堰(石井手用水)が作られ近隣の村に灌漑用水として供給していた。1889年(明治22年)に町村制が施行されたのに伴い、鹿児島近在のうち上伊敷村をはじめとする8村の区域より伊敷村が成立し、江戸期の上伊敷村は伊敷村の大字「上伊敷」となった。1950年(昭和25年)には伊敷村が鹿児島市に編入され、上伊敷は鹿児島市の町名「伊敷町」に改称した。1977年(昭和52年)には伊敷町の一部より分割され千年一丁目から二丁目、西伊敷一丁目から西伊敷七丁目として成立した。1977年には九州自動車道が開通し鹿児島北ICの供用が始まった。その後1985年に町域の中心を通る国道3号を通っていた鹿児島市電伊敷線が廃止され、国道3号の片側3車線化が行われた。1993年8月6日に発生した平成5年8月豪雨では町域の西端を通る甲突川の氾濫によって浸水し、多数の死者出るなど多くの被害を受けた。1995年(平成7年)10月5日に下伊敷町の一部が伊敷町に編入され、2002年(平成14年)には伊敷町の一部から伊敷台一丁目から伊敷台六丁目が分割され、翌年の2003年(平成15年)には伊敷町の一部で住居表示を実施するのに伴い町名整理が行われ、伊敷一丁目から伊敷八丁目が設置された。市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる。
出典:wikipedia
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