ナーシルッディーン・マフムード・シャー(Nasir-ud-Din Mahmud Shah, 生年不詳 - 1413年)は、インド北部を支配したトゥグルク朝の第8代君主(在位:1394年 - 1413年)。父は第6代君主のナーシルッディーン・ムハンマド・シャー。1394年、父が死去し、その後を継いだ兄のアラー・ウッディーン・シカンダル・シャーもすぐに死去したために即位した。だが、これに反対する貴族らはマフムード・シャーの甥ナーシルッディーン・ヌスラト・シャー(ギヤースッディーン・トゥグルク2世の弟にあたる)を擁立し、宮廷は2ブンされた。マフムード・シャーはデリーを、ヌスラト・シャーはフィールーザーバードを支配し、争いを繰り広げた。また、マフムード・シャーによってジャウンプル総督に任命されたマリク・サルワルが同年に独立を宣言し、ジャウンプル・スルターン朝を建国している。このようなトゥグルク朝の情勢の乱れは、ティムール朝の王ティムールのもとにも伝わり、ティムールはインドから富を得るためとジハードを行うために、1398年7月インダス川を越えて北インドへと進軍した。同年11月26日、トゥグルク朝の軍勢はティムールの軍勢にデリー郊外の平原で敗れた。ティムール軍の情報によると、ティムール軍100000に対してトゥグルク朝の軍は歩兵40000、騎兵12000、象軍120であり、ムハンマド・ビン・トゥグルクやフィールーズ・シャー・トゥグルクの時代の軍勢の10分の1程度であったことから、トゥグルク朝がどれほど衰退していたかがうかがえる。さらに、12月17日、ティムール軍はデリー郊外でトゥグルク朝の軍を破り、翌18日にはデリーに入城し、王宮をはじめ略奪が行われ、デリーからは金銀財宝をはじめ大量の物資が奪われた。また、デリーの住民は他の地域へと移住した。ティムール軍の撤退までにデリーの住人100000が殺害され、そのほとんどがヒンドゥー教徒だったことから、ティムールの目的通りの結果となった。同年12月末、ティムール軍は莫大な略奪品と多数の奴隷とともに引き上げた。ティムールのデリー占領と破壊、大量虐殺はトゥグルク朝の衰退を決定的なものとしたのみならず、王朝の権威そのものも失墜させた。デリーの住民は他の地域へと移住した。その後、マフムード・シャーはデリーに戻ったが、強力な臣下の言いなり何ならざるを得なかった。また、1401年にはマールワー・スルターン朝が、1407年にはグジャラート・スルターン朝がそれぞれトゥグルク朝から独立した。1413年(あるいは1412年)、マフムードは死去し、トゥグルク朝は断絶した。王家の断絶により、王位は強力な臣下であるダウラト・ハーン・ローディーが後を継いだが、翌年ヒズル・ハーンがデリーを占領し、トゥグルク朝は名実ともに終焉を迎えた。
出典:wikipedia
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