


京都洛西観音霊場(きょうとらくさいかんのんれいじょう)とは、桂川西岸から西山にかけての地域(旧乙訓郡及び葛野郡に相当)に置かれた観音霊場。三十三番までの札所と番外札所三ヶ所の計36寺院から構成される。洛西三十三観音霊場、また旧称の洛西観音霊場とも呼ばれる。この霊場は、江戸時代に信仰を集めた西の岡三十三所(にしのおかさんじゅうさんしょ)を前身とする。西の岡とは、現在の京都市西京区南東部と向日市西部の境界をなす西ノ岡丘陵(向日丘陵、長岡丘陵とも)のことで、さらにその周辺の地域をも指した。この地域は京都の西に位置することから西方極楽浄土に見立てられ、古くから阿弥陀如来やその脇侍である観世音菩薩への信仰が盛んだった。特に、世情が安定し庶民の生活にも余裕が生じた江戸時代には、西の岡各地でも観音講(隣近所といった小規模な地縁を紐帯とする観音信仰結社)が組まれ、西国三十三所への巡礼が盛んに行われた。しかし、現在のように交通機関なども発達していなかった当時は西国三十三所への巡礼には時間も費用もかかり、希望者すべてが巡礼に行けるわけではなかった。あくまでも講の構成員で資金を出し合って代表者を送り出すというものであり、代表者になれるのは成年に達した各家の長男に限られるなど、誰もが気軽に巡礼に出られる訳ではなかったのである。そこで誰でも観音巡礼が出来るように、地域内の観音を祀る寺院をまとめ西国三十三所を模した「うつし霊場」が置かれた。これが西の岡三十三所である。この西の岡三十三所がいつ開創されたのかは、室町時代とも江戸時代とも言われているが 史料が残されていないためはっきりしない。しかし20番・称讃寺には文政十年(1827年)、21番長福寺には嘉永七年(1854年)、25番阿弥陀寺には弘化二年(1845年)の日付の奉納額が現存しており、遅くとも江戸時代後期には盛んに巡礼が行われていた事がわかる。しかし明治維新以後は神仏分離、廃仏毀釈の影響もあって廃寺となる札所もあり、西の岡三十三所への巡礼は徐々に忘れられていった。14番勝龍寺には1973年(昭和四十八年九月吉日)の日付の奉納額も現存しており、戦後も細々と巡礼が行われてはいたようであるが、その頃までにはすでに「知る人ぞ知る」存在となっていた。西の岡三十三所が名を改めて再スタートを切ったのは1978年3月の事。4番西迎寺の住職が、同寺所蔵の資料(大正時代の御詠歌集写本)を基に、各札所寺院へ霊場再興を呼びかけた事に始まる。これを受けて札所寺院は霊場会を発足、洛西観音霊場の名称で再興された。霊場名に「洛西」の地域名が冠されるようになったのは、西の岡という地域名がすでになじみの薄いものとなっていたためである。ちなみに洛西三十三所などの異名を記した江戸時代後期の奉納額も現存しており、この洛西という霊場名は必ずしも新しいものというわけではない。更に霊場再興20周年には、「京都」を冠した京都洛西観音霊場を正式名称に改め現在に至る。
出典:wikipedia
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