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田村麻呂伝説

田村麻呂伝説(たむらまろでんせつ)とは平安初期に活躍した坂上田村麻呂に関する伝承である。鬼や賊を征伐する英雄譚とそれにまつわる地名、記念物および寺社建立伝説などが日本各地に残されている。征夷大将軍として功績を残したことから、足跡を辿るように東北地方に特に多く分布する。征夷大将軍として活躍した坂上田村麻呂は蝦夷の反乱、あるいは地方の賊や鬼の討伐に活躍する軍事的英雄として伝説に登場する。その際、地名の由来として、あるいは記念物の由来として語り継がれている(起源譚)。また神仏の信仰に厚かった坂上田村麻呂には寺社の建立や奉納あるいは参拝の事績が伝説の半分を占める。最も早い伝説では「吾妻鏡」の文治5年(1189年)条に岩手県の田谷窟における賊の討伐と寺院の建立、そして鎮守府八幡宮での武具の奉納の言い伝えが残されている。坂上田村麻呂(または坂上田村麿)個人の他に、その後に出羽や北東北で活躍した藤原利仁将軍と融合して「田村利仁将軍」、あるいは鎌倉・室町時代に福島県田村地方を支配した「田村氏」の事績を投影した「田村将軍」などとして登場する。討伐伝説では、その地方の賊や鬼を征伐する主人公として坂上田村麻呂が登場する。鬼や賊の名前は地域や物語によって違いがあり、岩手県では悪路王や赤頭、福島県では大高丸や大多鬼根などが登場する。田村将軍がその地方の賊を征伐する過程で記念物や地名、そして寺社が深く関わってくる。鈴鹿山脈は古来より交通の要所であり盗賊が横行したことから鬼や賊の伝承が残されている。坂上田村麻呂が鈴鹿御前や鈴鹿山の鬼神・大嶽丸を討伐した話として『鈴鹿の草子』『田村の草子』、奥浄瑠璃『田村三代記』を通じて田村麻呂伝説が広く知られている。鈴鹿峠を滋賀県側へ下ったところに坂上田村麻呂公を主祭神とする田村神社 (甲賀市)が鎮座する。三重県和歌山県の周辺では鬼ヶ城伝説を中心に泊観音(清水寺)、大馬神社などの縁起に坂上田村麻呂伝説が残されている。また、熊野近くの御浜町尾呂志においても坂上田村麻呂が四鬼の窟に棲む鬼を征伐した話が伝わっている。『平城天皇の頃、鬼岩屋に鬼神が住み郷民を悩ませた。鈴鹿山の鬼神を退治した坂上田村将軍が紀伊国の鬼の話を聞いて大君の神の国で暴れるとはけしからんと二木島を経由して船で岩屋に近付いた。鬼の大将「金平鹿(こんへいか)」は手下を集め、田村丸には観音の加護があり我々の神通力が効かないかもしれないと、食料を運び込んだ岩屋に閉じこもり石の戸を閉めた。田村将軍が攻めあぐんでいると沖の島の上に菩薩のような一人の童子が現れ、弓矢を携えて将軍を手招きした。童子は私が舞うから軍勢も一緒に舞おうと語り、船を並べた舞台の上で舞い遊んだ。その妙なる調べに鬼の大将は何事かと石の戸を少し開け顔を出した。将軍は童子から授かった弓矢で金平鹿の左眼を撃ちぬいた。岩屋から800もの手下の鬼が飛び出したが、田村軍の千の弓矢にことごとく倒れた。千手観音の化身である童子は光を放って飛び去ったという。』『四鬼の窟に住む鬼が村の子供をさらっていくので人々は不安であった。田村将軍は鬼ヶ城で鬼の首魁や手下を滅ぼしてから、尾呂志の鬼も退治しようと甲冑に身を固めたくましい馬に乗ってやってきた。通りかかった村人に鬼の住む窟の所在と四頭の鬼が住むことを聞き出した。一同は弓に弦を張り鏃と刀を研いで用意を整えた。山道を辿ると鬼どもは大きな岩の上であぐらをかいてこちらをみつめ、俺達を退治しようとは片腹痛い、射れるものなら射てみよと大声を張り上げた。田村将軍の号令で大合戦が始まった。鬼どもはしだいに弱り、これはかなわないと棍棒を引きずり逃げ出した。田村将軍に切られた鬼の首は宙に飛び将軍めがけて飛びついたが、身をかわされそばの木の根にかみついた。ほかの三鬼もみな殺された。見事、鬼を退治した将軍が彼らのこもった窟に行くと、奥の暗いところでしくしく泣く声がした。そこに藤蔓で縛られた子供がおり、一昨日さらわれた娘の松でございますと村人の中から男が進み出た。将軍は各地で鬼を退治したので村人は大層喜んだという。』桓武天皇の命を受け、達谷窟で兵を起こした高丸や悪路王を討ったとする伝承が東北地方各地に残されている。青森ねぶたも昭和末期までは田村麻呂の蝦夷征伐が起源と言われていた。もちろん史実の上では現在の盛岡市までしか北上していないことになっているが、青森市内には蝦夷征伐が行われたこと伝える史跡が複数残っており、いずれかの人物が来た可能性は高い。文室綿麻呂は811年に蝦夷大征伐を行っておりその大半が田村麻呂没後である。この前年、薬子の変にあたり誤認逮捕されていた綿麻呂が田村麻呂によって解放されたことから、綿麻呂自身がみずからの戦功を田村麻呂に捧げたとも考えることができる。長野県の安曇野には坂上田村麻呂が魏石鬼八面大王を征伐したという話が残されている。これは信府統記(第十七)に記されている伝承である。岡山県由加山の鬼退治にきた坂上田村麻呂が戦勝を祈願して神の峰に金の甲を埋めたことから金甲山と呼ばれるようになった。ふもとの円通寺の竜王様に戦勝御礼として金の甲を奉納したという。坂上田村麻呂の建立とされる寺社や奉納したとされる寺社伝説はゆかりの深い東北の岩手県、宮城県、福島県を中心に残されている。また彼が通過したと考えられる茨城県、長野県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県にも残されている。しかし、田村麻呂が直接行ったとは考えられない山形県、秋田県、青森県さらに西日本の和歌山県や岡山県にも伝説が残る。特に多くの伝説が残されているのは福島県田村地方であり、生誕伝説から地名伝説そして寺社伝説に至るまで約80種類(うち30種類は寺社伝説)を数える。次に多いのが宮城県で約40種類(うち25種類は寺社伝説)の伝説が残されている。坂上田村麻呂が建立したという由緒をもつ寺社は宮城県の観音寺を中心に全国に100以上を数える。江戸時代に仙台藩の風土を記した『平泉雑記』は「田村将軍建立堂社」として次の21寺社を上げている。このうち、奥州三観音とよばれている牧山観音、富山観音、および箟岳(ののだけ)観音は は成敗した賊の死体を埋めた上に立てられたと伝えられている。また田村麻呂が同時に建立した伝えられる「六ヶ寺」または「六カ所の長谷寺」と見なされている箟獄観音、牧山観音、大武観音、小迫観音、長谷観音、および鱒淵観音のいづれにも成敗された賊や鬼神が埋められていると伝えられている 。これらの伝説は観音像や寺の建立が討伐された蝦夷や賊の鎮魂あるいは封じ込めとして行われたことを示唆している。いずれにしても田村麻呂の討伐伝説と寺社伝説は密接な関係にあることが解る。一方、田村麻呂が史実の上では到達の記録がない青森県においても、田村麻呂を起源と伝える寺社がいくつか存在する。これらはいずれも大同年間のことと伝えられるが、このころ田村麻呂は朝廷中枢の職役に就き、蝦夷征伐の主体からは既に離れていたと考えられる。田村麻呂は蝦夷や賊の征討に際して各地の寺社を参拝し武具を奉納したと言われている。その内、以下の寺社は現存している奉納物が田村麻呂に由来していると伝えられている。 軍事的英雄であるがゆえに、田村麻呂の事績や伝説は早くから文芸作品となって、『田村の草子』などの物語、謡曲『田村』、奥浄瑠璃『田村三代記』が作られ、人々に伝えられた。『田村の草子』では、後代に活躍した鎮守府将軍藤原利仁の伝説と融合し、「藤原俊仁(藤原利仁のこと)の嫡子、田村将軍藤原俊宗」として登場する。田村将軍藤原俊宗は「坂上俊宗」とも「田村丸」とも呼ばれている。ここでは田村将軍が伊勢の鈴鹿山にいた妖術を使う鬼の美女である鈴鹿御前と結婚し、その助けを得て悪路王(あくろおう)を陸奥の辺りまで追って討つ展開になっている。

出典:wikipedia

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