アイダ・メイ・パーク(, 1879年12月28日 - 1954年6月13日)は、アメリカ合衆国の映画監督、脚本家である。1879年(明治12年)12月28日、アメリカ合衆国のカリフォルニア州ロサンゼルス市に生まれる。記録に残る最初の脚本作品は、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)傘下に統合されたあとのネスター・フィルム・カンパニー(ネスター・スタジオ)が製作したウォレス・リード監督・主演作品の "A Gypsy Romance" である。同作はパークが満34歳のときの同年4月8日にユニヴァーサルの配給で公開された。同年、同じくユニヴァーサル傘下のレックス・モーション・ピクチャー・カンパニーが製作したポーリン・ブッシュ主演作品 " の脚本を書いて、初めてジョセフ・ド・グラス監督と組む。以降、同監督に脚本を多く提供する。1916年(大正5年)、同年設立されたユニヴァーサル傘下の製作会社・ブルーバード映画で、ド・グラスが監督したルイズ・ラヴリー主演 " の脚本を書いて以降、同社の作品の脚本を手がけ、日本にも多く公開された。1917年(大正6年)には、ロン・チェイニー主演のブルーバード映画 " で監督デビューを果たす。同社で監督として、1918年(大正7年)のチェイニー主演の『罪の報ひ』までを手がけた。1920年(大正9年)、ジョセフ・ド・グラスと結婚する。同年、ユニヴァーサルを離れ、映画プロデューサーのアンドリュー・J・キャラハンによるアンドリュー・J・キャラハン・プロダクションで、ベッシー・ラヴ主演の "The Midlanders" の脚本を書き、夫のジョセフ・ド・グラスとともに共同監督する。同年、ルイ・J・ガスニエのルイ・J・ガスニエ・プロダクションズで、ルー・コディ主演の『蝴蝶の男』の脚本を書き、ガスニエとともに共同監督する。同年、アンドリュー・J・キャラハン・プロダクションズが製作した、ベッシー・ラヴ主演の『芸は下手でも』を夫とともに共同監督したのが最後の監督作となった。脚本家としては、1926年(大正15年)、夫が自らの製作会社ジョセフ・ド・グラス・プロダクションズで製作・監督した "The Hidden Way" にオリジナルシナリオを提供、1930年(昭和5年)、ウィリス・ケントがウィリス・ケント・プロダクションズで製作、ウィリアム・A・オコナーが監督した "Playthings of Hollywood" にオリジナルシナリオを提供したのが、最後の脚本作となった。同作は最初で最後のトーキーであり、監督作はすべてサイレント映画であった。1940年(昭和15年)5月25日、夫ジョセフと死別した。1954年(昭和29年)6月13日、カリフォルニア州ロサンゼルス郡で死去した。満74歳没。特筆以外はすべて脚本である。日本語題の付されていないものは日本未公開作品である。
出典:wikipedia
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