耳鳥斎(にちょうさい、宝暦元年(1751年)以前 - 享和2-3年(1802-03年)頃)とは、江戸時代の大坂の浮世絵師、戯画作者。狩野派の小柴隼人の門人。姓は不明。名は半三郎。俗称松屋半三郎。元来は酒造家であったが、家産を使い果たして骨董商を営んだという。絵を描き始めたのは骨董商になってからと推測される(大久保常麿『松屋耳鳥斎』 大正9年(1920年))。安永から天明期にを最盛期として活躍した。略筆体で人間の手足を細く描いた個性的な鳥羽絵 で知られており、滑稽の才に富み、極めて軽妙な筆使いによって、粗画でその意を表すのに妙を得た。安永9年(1780年)の三都の芝居名優似顔絵集『絵本水也空』3巻3冊、天明7年(1787年)の大阪の変人16人を取り上げその奇行ぶりの一端を戯画化した『画話耳鳥斎』4巻4冊、寛政5年(1793年)刊行の『軽筆鳥羽車』3冊、享和3年(1803年)の京阪の年中行事を描いた『絵本かつらかさね』、文化2年(1805年)の『絵本古鳥図加比』(えほんことりのつかい)三冊などを著しており、何れの作品も異彩を放っている。『絵本かつらかさね』の序文に「嗚呼南無三寶今也則亡矣」とあり、この版本は耳鳥斎没後の出版で、この少し前に亡くなったとみられる。同著では、耳鳥斎はよく「世界は此れ即ち一つの大戯場」だと語っていたという記述があり、また耳鳥斎は「非僧非俗以酒為名」(白文方印)と彫られた人を食ったような印章を用いており、堅苦しい世間を笑い飛ばす耳鳥斎の姿勢が窺える。師は狩野派の絵師とされるが、作品には狩野派の影響は殆ど見られない。鳥羽絵で評判を得たが、耳鳥斎自身は手足が長いだけの鳥羽絵と一緒にされては心外だとし、自らが目指すのは鳥羽僧正の高みだと語っている。しかし研究者からは、やはり耳鳥斎は鳥羽絵の影響を少なからず受けたことが指摘されており、他に鳥羽僧正は元より、江戸中期の画僧・古澗明誉や、与謝蕪村の戯画俳画との類似が認められる。『鳥羽絵手本』では「浪花津に梅がへならで耳鳥斎、降る金銀に扇に取る」と歌われ、扇面画を多く描いたとされるが、現存数は5点ほどである。他に『仮名手本忠臣蔵』を題材にした肉筆画が複数確認されている。版本では役者絵本『絵本水也空』の画風は、ほぼ同時代に活躍した流光斎如圭およびその門人たちに引き継がれた。また、戯画に見られる独創的な発想は、宮武外骨や岡本一平など、後の狂画に大きな影響を与えている。なお耳鳥斎の絵は、とりわけ大正期から第二次世界大戦にかけて人気が高く、画風が一見稚拙で素人風にも見える事からか、贋作が数多い。また相前後する時期に、「越鳥斎」や「鉄鳥斎」など「鳥」の字がつく画人が大阪におり、彼らの筆と思しき作も耳鳥斎と極めて似た味わいを見せる物が多いという。鑑定には当然、作品自体の熟視や、落款や基準印の確認が求められるが、他の着眼点として耳鳥斎はかなり達筆であり、画面中の墨書が下手な作品はまず贋作と考えて良い。また、新しい本紙に、立派な表具を施した作品に贋作が多いという。
出典:wikipedia
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