蛎塚新田(かきづかしんでん、蠣塚新田とも書かれる)は、三重県桑名市の大字。郵便番号511-0861。桑名市の中央部、大和地区の地域内に位置する。古墳時代の貝塚があり土師器・須恵器・牡蛎殻などが出土している。地形的には東部は平地で西部は丘陵で、旧来からの集落は西部にある。特に東部で稲作が卓越している。住民による自治組織には蛎塚東自治会と蛎塚西自治会がある。北は下深谷部(しもふかやべ)、東は東汰上(ひがしゆりあげ)・西汰上・北別所、南及び西は播磨・西方(にしかた)に接する。揖斐川河畔に飛び地があり、上之輪新田・福島(ふくじま)・東汰上と隣接する。古くは弥生時代から鎌倉時代のものと見られる蛎塚貝塚が発見されているほか、持統天皇の潜幸の地という説(『勢陽五鈴遺響』による)や桑名郡家跡地という説もあり、太古の時代より開けていたと考えられているが、「蛎塚新田」の地名が史料中に見られるのは江戸時代以降である。この頃には伊勢国桑名郡に属し、桑名藩の配下にあった。『元禄郷帳』では、北隣の下深谷部村の枝郷として記載されている。山中に冷泉があり、薬効を求めて湯治客が多く集ったという。これに関連して明治初期には温泉開発が持ち上がったものの、不許可となったため実行されなかった。明治時代になると桑名郡大山田村の大字となり、従来通り農業主体の村落として続いてきた。1872年(明治5年)3月18日に大雨による山崩れが発生し、民家2軒が被災した。これ以後は集落が西部の丘陵から東部の平地へ移っていった。第二次世界大戦以後は、水谷建材や光精工の進出と国道258号(大桑国道)や東名阪自動車道の開通により人口が増加した。文字通り、地下に多くの貝殻層、特にカキが多いことから命名されたとされる。ただし、『勢陽雑記』・『三国地誌』などには「柿塚」という表記が見られる。人口:382人(2009年9月30日現在、『桑名市公称町名別人口』による)公立の小・中学校に通う場合、桑名市立大和小学校、桑名市立成徳中学校となる。養老鉄道養老線が縦断しているが、蛎塚新田には駅は設置されていない。最寄り駅は同線の下深谷駅または播磨駅。路線バスは設定されていない。
出典:wikipedia
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