十人の処女たちのたとえ(じゆうにんのおとめたちのたとえ、英語:The Parable of the Ten Virgins、the Wise and Foolish Virgins)とは、マタイによる福音書25:1-25:13にある、救世主イエス・キリストが語ったたとえ話。天国が、新郎を門の内に迎えるためにともし火を与えられた10人の処女にたとえられている。そのうちの5人は愚かであり、5人は賢かった。5人の愚かな娘は油を用意せず、5人の賢い娘は油を用意していた。愚かな娘らは、主人が帰って来た際にともし火を灯して迎える事が出来ず、油を買い求めに行っている間に門は閉ざされてしまった。閉ざされた後で愚かな娘が門を開けるように求めたが、主人から「我は汝らを知らず」と言われた。本たとえについて、(他の聖書の箇所と同様に)教派ごとに(場合によっては個々人ごとに)多様な解釈があるが、概ねいずれの教派・思想傾向に関連する註解書においても共通する解釈として、次が挙げられる。主人が不意に来ることは救世主の予測し得ない再臨を、油を用意することは自らを再臨に備える事を意味する。再臨に自らを備えた者は最後の審判の際に天国に入り、再臨に自らを備えなかった者は最後の審判の際に天国に入る事が出来ない事が示されたたとえ話であり、信者に対していつも自らを備えるように教える話であるとされる。賢い娘と愚かな娘が半々であるというその割合には、救われる者が半分であるといった意味は読み取られない。多くの教派で聖人とされる聖金口イオアン(ヨハネス・クリュソストモス)によれば、油は仁慈・慈善といった美徳を表しているとされる。油についての聖金口ヨハネスによる解釈は、正教会、カトリック教会においても採用されており、ギリシャ語において、油()と憐み()が同じルーツを持つ語彙であるとされる事にも言及される事がある。他方、テサロニケ人への第一の手紙5章19節と関連させ、油を聖霊の象徴として捉える解釈もプロテスタント等にある。しかしながらもう一方において、これらの寓喩的解釈を牽強付会であるとして、油についての象徴的解釈を認めない立場も存在する。高等批評を是とする立場による註解からは、本たとえ話は、終末が初期教会の信徒達の考えに反して直ぐには来なかった事による、信徒の歴史観の破綻と失望によって必要となった神学的問題を反映し、花婿の到来の遅延に特に言及されていると指摘される事があるが、高等批評を特に取り入れない註解(正教会、カトリック教会、福音派をはじめとする高等批評を受入れないプロテスタントによる註解書等)においては、このような指摘はなされない。なぜイエスが花婿の到来の遅れについて語ったのかについては、聖金口イオアン(ヨハネス・クリュソストモス)、および正教会において著名な中世の聖書註解者であるオフリドのフェオフィラクトによるものとして、神の国が速やかに来る事を期待する向きが使徒達の中にあったために、再臨が速やかに来る訳ではない事をキリストが示してその期待を断とうとしたとする解釈が存在する。
出典:wikipedia
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