リー・トレビノ(Lee Trevino、1939年12月1日 - )はアメリカ合衆国のプロゴルファー。メキシコ系アメリカ人の象徴的存在であり、しばしば「スーパーメックス」、「メリー・メックス」と呼ばれている。トレビノはテキサス州ダラスでメキシコ人の血をひく家庭に生まれた。彼は母親のファニータ・トレビノと墓掘り人であった祖父のジョー・トレビノに育てられた。幼い頃に家を去った父ジョセフ・トレビノの記憶は全くなかった。幼児期の生活は時折学校に通い、家族のために働いて金を稼ぐ事から成り立っていた。5歳の時から綿農場で働き始めている。数個のゴルフボールと古いゴルフクラブを与えてくれたおじからゴルフの手解きを受けた。その後近くのカントリークラブに忍び込んではプレーする事に自由時間を費やようになり、ダラス・アスレチック・クラブのキャディを始め、すぐに専任でキャディとして勤めるようになった。トレビノは働くために14歳で学校を辞めなければならなかった。彼はキャディと靴磨きの仕事で週30ドルを稼いだ。キャディ小屋の裏側に3つのショートホールができたため、ゴルフの練習ができるようになり、仕事の後に少なくとも300球のボールを打っていた。17歳の時にアメリカ海兵隊に入隊し4年間務めた。彼の軍隊生活は海兵隊士官とのゴルフに費やされた。トレビノはゴルフのパートナーを務める事が、上等兵への昇進の助けになったと主張している。退役の後、トレビノはテキサス州エル・パソのクラブ専属プロになった。彼は一対一の賭けゴルフで臨時収入を得ていた。1967年からPGAツアーに参戦。2回目の全米オープン(1967年)出場で、優勝したジャック・ニクラスに8ストローク及ばないトータル283でまわり、5位でフィニッシュして6000ドルを稼いだ。ルーキーイヤーに26,472ドルを獲得し、PGAツアー年間賞金ランキング45位にくい込み、ゴルフダイジェスト () によりルーキー・オブ・ザ・イヤーに選出された。ツアー参戦2年目の翌1968年、ニューヨーク州ロチェスターのオーク・ヒル・カントリークラブで開催された全米オープンで勝利を収めた。トレビノはPGAツアーで6度のメジャー大会優勝を含む通算29勝をあげた。最も好調だったのは1970年代で、ジャック・ニクラスの最大のライバルであった。1970年に賞金王となり、1971年と1972年の2年間で10勝をあげた。この中にはニクラスを18ホールプレーオフの末に下した、1971年の全米オープン優勝が含まれている。この2週間後にカナディアン・オープンで優勝し、更に翌週には全英オープンでも優勝している。1971年、トッププロスポーツマンとしてヒコック・ベルト( - 1950年から1976年まで年間最優秀プロスポーツ選手に与えられた記念品のベルト)を授与された。またスポーツ・イラストレイテッド誌のスポーツマン・オブ・ザ・イヤー、ABC「ワイド・ワールド・オブ・スポーツ」のスポーツ・アスリート・オブ・ザ・イヤーの称号も獲得した。1975年のウェスタン・オープンが天候不良で中断されていた時、グリーン脇でキャディバッグに寄り掛かってくつろいでいた彼は、落雷を受けて脊柱を損傷した。トレビノは怪我を負った背骨の椎間板の手術を受けたが、背中のトラブルは彼のプレーを妨げ続けた。それにもかかわらず、1980年のマーク・マコーマックのワールドゴルフランキング(現在のものとは異なる)ではトム・ワトソンに次いで2位にランクされ、1984年の全米プロゴルフ選手権で44歳にしてメジャー6勝目を飾った。トレビノは20以上の国際大会や非公式のプロトーナメントで優勝した。彼はシニアPGAツアー(現在のチャンピオンズツアー)の初期の成功に尽力した、カリスマ的なスタープレーヤーの1人で、メジャー大会4勝を含む29勝をあげた。1990年と1992年にはシニアの賞金王になった。1983年から1989年までNBCテレビのPGAツアー中継番組で解説者を務めた。彼自身の解説によれば、彼のスタイルはアウト・トゥ・インのスイングから繰り出されるフェードボール(右打ちであれば軽く右にスライスする球筋)が特徴であり、これは慢性のフック(右打ちであれば左にそれていく球筋)病を克服するために考案された。これにより多くの感動的なショットと紙一重の勝利を生み出してきた。トレビノは親しみやすくユーモアに富んだ人物と見なされており、報道機関に言動を引用される事が多かった。キャリアの後期に彼は「私が1967年にツアーに参戦した時には、冗談を言っても誰も笑わなかった。翌年(全米)オープンに勝った時に同じ冗談を言ったら、皆死ぬ程笑い転げたものさ。」と語っている。1971年、全米オープンのプレーオフ開始の際に、彼は相手のジャック・ニクラスにゴム製の蛇を投げつけた。初期にはマスコミの注目は彼が前腕に彫った先妻の名前のタトゥーを隠すために貼っていたバンドエイドに集まっていた。その後このタトゥーはレーザーによる形成外科手術で取り除かれている。1975年のウェスタン・オープンで雷に打たれた後、記者からコースに出ている時に再び天候が荒れたらどうするか尋ねられると、トレビノは1番アイアンを取り出して空に向ける、と答えた。「神ですら1番アイアンを打つ事は難しいからね。」またこうも語っている。「私は雷に打たれるという経験をし、4年間海兵隊にもいた。世界中を旅して、君が想像でき得るあらゆる場所に行った。もう奥さん以外恐いものは何一つ無いよ。」トレビノは1996年のコメディ映画『俺は飛ばし屋/プロゴルファー・ギル』"(Happy Gilmore)" にカメオ出演している。※ジャック・ニクラスを18ホールのプレーオフの末に下した。スコアはトレビノが68、ニクラスが71であった。太字はメジャー大会DNP = 出場せず
CUT = 予選落ち
"T" = 複数の選手と順位を分け合った(タイ)
グリーン地は優勝、黄色地はトップ10入りを表している。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。