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アキダバン (装甲艦)

アキダバン (ポルトガル語:Encouraçado de Esquadra Aquidabã) はブラジル海軍の舷側砲塔装甲艦。同型艦はない。本艦はブラジル海軍が自国の沿岸警備のためにイギリスに発注した装甲艦である。ブラジルの革新の時代であったために本艦は二度の内乱に参加し、二度目では自国の魚雷艇の雷撃で撃沈され、図らずも主力艦に対する魚雷の威力を全世界に知らしめてしまった艦である。本艦の基本構造は艦首水面下に衝角を持つ平甲板型船体に3本の帆走用マストと1本煙突を持つ装甲フリゲートで、中央部に箱型の操舵艦橋と煙突を配置した事により、船体の舷側甲板上に23.4cm単装砲2基を収めた連装式主砲塔を前後に互い違いに配置しており、1基の主砲が艦首から艦尾まで片舷180度+反対舷側の限定された範囲に発射できた。この配置は前方および後方には全主砲を向ける事ができるが、片舷方向には極めて限定された範囲しか向ける事ができなかった。艦載艇は主砲の爆風を避けるために船体中央部の上部構造物上に配置され、マストの両脇に設けられた2本1組のボート・ダビッドにより高所から水面に降ろされた。上部構造物は砲塔の射界を確保するために一部が切り欠かれて反対舷への方針を向けられるようになっており、上部に連絡用の橋が設けられていた。近代戦艦の基本形が完成するまでイギリス海軍の「コロッサス級」やイタリア海軍「カイオ・ドゥイリオ級」など各国の主力艦でかなり採用されたものの、後に艦隊が単縦陣を組むようになると、前後方向より舷側方向に対して全主砲を向けたほうが都合が良いと判明し、その後は用いられなくなった。本艦の主機関は主砲塔2基の弾薬庫に挟まれる形で船体中央部の主要防御区画(ボックス・シタデル)内部に配置されており、石炭専焼円筒缶を片舷4基ずつ並列に配置し計8基を備え、さらにレシプロ機関を左右1基ずつ、計2基を組み合わせた2軸推進である。最大出力は6,500馬力を発生・速力15.8ノットを発揮でき、石炭を300トン搭載できた。1898年にドイツで近代化改装を行った折に水に浸かった機関を新型の物に更新したため出力は7,300馬力に増加し、石炭搭載量は500トン増加した800トンとなり、10ノットで4,500海里を行動できると計算された。機関のみで外洋航行が可能となったため帆走設備は撤去され、替わりに基部と頂上部に探照灯台を持ち、装甲化された2段の見張り所を持つミリタリー・マストが上部構造物の前後に1基ずつ計2基が立てられた。船体の修理後、イギリスに回航されて武装の近代化も行われ、主砲塔の武装もアームストロング社の新式20.3cm連装速射砲2基に更新され、副武装も12cm単装速射砲に更新され、艦首の船首楼甲板上に並列配置で防盾の付いた単装砲架2基と艦尾部の舷側配置で片舷1基ずつで計4基配置した。近接戦闘用に5.7cm単装速射砲を上部構造物上に等間隔で片舷4基ずつ計8基を配置した。アキダバンはイングランドで建造された。1883年6月18日起工。1885年1月17日進水。8月14日に砲撃試験を行った後、12月16日にイングランドを離れた。途中リスボンとバイーアに立ち寄り、1886年1月29日にリオデジャネイロに到着した。アキダバンは、1891年11月23日に始まったクストジオ・ジョゼ・デ・メロ (Custódio José de Mello) 少将が主導する反乱に参加した。1893年、アキダバンはアメリカ合衆国で国際観艦式に参加した。同年、再びデ・メロが起こした海軍の反乱 (Revolta da Armada) の旗艦となった。1894年4月16日、サンタカタリーナ沖に停泊していたアキダバンを、1等水雷艇Gustavo Sampaioが攻撃。2本の魚雷が命中しアキダバンは着底した。この戦闘の結果、反乱は終息に向かった。また、この攻撃は史上初のブラジル軍による魚雷使用であった。1894年にアキダバンは政府軍によって浮揚された。部分的に修理された後、1898年にドイツのシュテッティンおよびイギリスのエルジックで完全な修理と改装がなされた。1906年1月21日、Jacuacanga湾に停泊中に弾薬庫が爆発し沈没。212名の死者を出した。

出典:wikipedia

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