大槻 如電(おおつき じょでん、弘化2年8月17日(1845年9月18日) - 1931年(昭和6年)1月12日)は、明治時代から昭和時代初期にかけて活躍した学者・著述家。本名は清修。字(あざな)は念卿。通称は修二。如電は号。仙台藩士大槻磐渓の子。仙台藩の儒学者大槻磐渓の次男として江戸に生まれる。『言海』の執筆で著名な大槻文彦の兄にあたる。家学をうけて林家で漢学を学び、仙台藩の藩校養賢堂では国学も学んだ。明治4年(1871年)海軍兵学寮の教官となり、文部省に勤務して仙台藩から文部省に引き継がれた『新撰字書』編集事業にたずさわる。1874年(明治7年)、文部省を退官したのちは在野の学者として著述に専心した。明治8年には家督を弟の文彦に譲っているが、これは自由奔放な生き方の自分よりも、弟に家を任せた方が適切だと考えたことによる。和漢洋の学や文芸に通じ、『東西年表』や『洋学年表』、『駅路通』などの著作があり、父大槻磐渓の著作『近古史談』の改訂をおこなっている(刪修標注および刊行は弟の大槻文彦)。また、祖父大槻玄沢と親交のあった工藤平助の小伝も著している。如電は多方面に才能を発する知識人であったが、特に舞踊や雅楽、また平曲から俗曲にいたる日本の伝統音楽には精通しており、『俗曲の由来』や日本の雅楽研究の嚆矢となる『舞楽図説』を発表している。また、博識とともにその奇行で知られた。1931年(昭和6年)、腎炎のため87歳で没した。父の磐渓は、息子二人の性格を「二児の歌」という詩に託して右のように述べている。この歌の「大児」「修」とは如伝のことであり、「小児」「復」とは弟・文彦のことである。この歌で父・磐渓は、如伝の何事にも積極的な性格と文彦の着実に歩を進める性格を対比・指摘している。これは如伝5歳、文彦3歳時の父親による評価であるが、後に文彦自身も「兄は何事にも機先を制するやり方であるのに対し、自分は進むよりは守るという主義である」と述べている。先述のように家督を弟の文彦に譲ったことも、このような両者の性格によるものであろう。実際に一つのことに長く打ち込み、10年以上の年月をかけて『言海』を作成した文彦と比べて、如伝の興味・研究対象は歴史・地理・音楽・服飾と非常に多岐にわたっている。碩学として世に認められていた反面、奇行癖があったのも事実で、奇人扱いされることも多かった。講演会などでは、前の登壇者の発言の誤りをいちいち指摘するので、嫌がられることもあったという。
出典:wikipedia
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